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こんなことを書きながら気づきました。
人の上に立ったり、教育や援助をする役割の人
つまり「父親的な役割」や「母親的な役割」をする人たちを
私は、理想化して期待をする癖があったようです。
親に対して、「ちゃんと親の役割をしてほしい」という
期待が捨てきれていなかったと言うことですね。
もしくは、自分の父親に言いたかった言葉
「親の(親的な)役割を果たす力もないくせに、
子ども(弱い立場の人)に甘えて利用しているくせに、偉そうにすんな!」
を、思い出させるような出来事に、注目し続けてしまっていた。
もう、親に恨みはないし、子としての親に対する愛着はある。
それなりに愛されていたことも分かる。尊敬するところもある。
でも、自分がサイテーと思う部分は「サイテー」と言っていい。
(自分の気持ちを大事にする。〇〇さんと比べてどうだとか、思わない)
そしてそれは、自分自身が父と同じような人間になってしまっていた過去を
ちゃんと認めて、受け入れて、もっと大人に成長するために必要なこと。
以前は、父に似て、依存したいくせに罪悪感で夫をコントロールしようとしていたし
愛猫に「あんたのエサ代を誰が稼いでいると思ってるの!」と
言っている自分の言葉にぞっとしたこともある。(ああ、ほんと、サイテーだった)
理想化していた親を一人の人間としてみて
自分なりの評価をして、受け入れて、許して、仲直りする、という成長の課題は、
思春期から20代くらいで乗り越えていくものなのでしょうね。
あー、おこちゃまBBAだった。
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