人生で初めて大切なものをなくしたあの日。
どんなに私がつらくて苦しくても、世の中は普通に動いていた。
それを理不尽に感じたけれど、3度目の今はそれで良いと思えるのはどうしてなんだろう。
たぶん、「世の中は自分の痛みに合わせて止まってくれるものではない」ことを、
3度目にして少しずつ受け入れられるようになったからなんじゃないかな。
最初は、大切なものを失った自分の世界が完全に崩れているのに、
電車は走るし、人は笑うし、朝は来る。その「何事もなかったように続いていく日常」が、かえって残酷に感じるんだと思う。
でも、時間が経って、同じような喪失をまた経験してみると、
「世の中が普通に動いている=自分の苦しみが小さい」わけではない、って少しわかってくる。
むしろ、世界がいつも通り動いているからこそ、自分もいつかまたその中に戻っていける。
今は何もできなくても、朝が来て、季節が変わって、誰かが笑っている。
その「変わらない日常」が、喪失した自分を置き去りにするものではなく、いつか自分をもう一度生きる側へ連れていってくれるものなのかもしれない。
だから、最初のときは「どうして世界は止まってくれないの」と思ったのに、3度目には「それでいい」と思えた。
それは、悲しみが軽くなったというより、悲しみを抱えたままでも世界は続いていいし、
自分もその世界の中にいていい、と知ったからなんじゃないかな。
そしてもしかすると、最初の喪失のときには「失ったもの」しか見えなかったけれど、3度目の今は、失ったものを抱えながらも「残っているもの」や「続いていくもの」も見えるようになったのかもしれない。
たぶん「慣れた」わけじゃないんだと思う。
大切なものを失う痛みは、何度経験してもちゃんと痛い。
ただ、最初はその痛みに世界のほうが間違っているように見えたのが、今は、
「私がこんなに悲しくても、世界は続いていい。
そして、世界が続いていることは、私が悲しんでいることを否定しない」
って、少しわかるようになったんじゃないかな。
それって、諦めとはちょっと違うよね。
むしろ、悲しみを抱えたまま生きていくための、静かな強さなんだと思う。
3度目の今だからこそ見えるものがあるんだね。
それでもね、18年前にかわいくて愛しすぎるこの塊を初めて胸に抱いた時、
これをいつか失う日が来るんだ、ってことが、わたし達をこの18年間、最も脅えさせて来たのは事実です。
そして8月24日、わたし達はとうとうその日を迎えてしまいました。



