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私的蟄居生活365日

質素な田舎暮らし。おかれた環境でシンプルかつ心豊かな暮らしを目指して。シンプルライフ、学び、料理、ダイエット

昨年母が亡くなり、実家はいわゆる「空き家」になった。

遺族間で個々に異なる考えはあったけれど、話し合いの末、私に管理を任せてもらうことになった。

 

以来、たくさんの感傷が押し寄せる。
わたしは「家は生き物」で、植物のように呼吸をさせ、生かしていかねばならないと思っている。
昭和という歴史を根こそぎ否定するような捨て方はしたくなかったが、考え抜いてどうしても踏ん切りがつかなかった数点の家具を残して処分することを決断した。
ご多聞にもれず、実家にもたくさんのモノがあり、処分した。寄付したり、差し上げたり、そしてごみとして。
 
うちにはブランド品や目利きのものはないので、他人から見たら1文の価値もない、むしろ処分にお金がかかるジャンクばかりだろう。けれど、私にとっては大事。実家という歴史、母が生活の利便性を高めるために1つ1つ集めて大事に使っていた情景が思い起こされ、そして昭和という時代に、1つ1つのものを作るのにどれだけの工夫や丁寧な仕事があったかを改めてみる作業となり、暖かく、胸が締め付けられた。
 
例えば、箪笥の引き出し。底板は、薄いベニヤ板を交差しながら張り合わせて強度を出している。枠は隙間のない美しい組つぎ高温多湿の気候の中、長い間呼吸をしながらカビ1つつかず、衣類を守ってくれた。
しかし現実的には処分しなければならず、その引き出しも解体した。普通に押すとびくともしないのに、角度をつけて押すと、簡単にぱん!と継ぎ目が外れてただの板に還る。

私が何を捨てているんだろう?昭和という歴史?
空いた空間に私は何を入れるんだろう。何を入れても、同じ情景は帰ってこないけれど。