面白かった?

いい映画だった?

この映画好き?


すぐには答えられない感じ。


映像も美しく、

原作にも忠実、

だけど圧倒的に違う感じ。これはなんだろう?


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松山ケンイチはハマり役。

水原希子も、アフレコでも素晴らしい台詞まわし、

たたずまいもみずみずしく美しい!

あとナガサワさんもやな役を好演。

菊池凛子は・・・

重たくねっとりした感じは設定としてはハマり役なんだけど

泣きや混乱の演技になると途端に距離を感じてしまう。

しか~しそれよりなにより

多分私が一番がっかりしたのは

ベッドシーンやキスシーンがまったく好みじゃなかった



というところ。



原作の小説がヒットした原因としてある男性が書いていた評が

「あの本は下心を隠して女の子とさりげなくエッチな話題ができるネタ」

とあって、合点がいった。

そうだったそうだった、当時このヒット小説をネタに

寝るとか濡れないとか手でするとか口でするとか

について討論めいた話題に、気軽になったのを思い出した。(笑)

で、よく男性と女性側の、この小説に対する読み方の違いを感じたのだった。

当時はぼんやりとだけど。

多くの恋愛小説の主題はその「男女の行き違い」にあるように

文学評も、ネットでさらうと男女の評の行き違いがあって面白い。

作品で行き違いが描かれ、その評が行き違うように、

当然現実の恋愛でもこの行き違いがある。がために

一人称の偏った目線で、拡大していくひとりの男性の思考の世界にダイブしていくような

その小説世界は面白かったのだ。

その魅力が、転じて

三人称の視点で撮っている映画になると

ものすご~く違和感があるのだ。

ずれが不快なものになる。

村上春樹の魅力は、その偏った視点からみる世界の独特な豊かさであるのに

カメラという第三者は、

「僕」も「直子」も「ミドリ」も均質に映し出してしまい

そこに女性である私が

感情移入していた側(女性)の「不利さ」というか

「不理解」が映し出されることに苛立ってしまうのだ。

挿入・射精原理主義的な前提の偏りは

小説なら一人称だから捉え方の違いとして許されるところが

映画だと三人称的な映像の中で

すごく現実そのものがゆがめられた気分になってしまう。

直子と挿入できた20歳の時と

できなかった時とのシーンが、ほぼ同じに見えてしまったのも

あのシーンをあれだけの時間とって回した意味がないように思った。

ベッドシーンをせめて無音にするとか?

演技のせいなのか演出のせいなのか。。。。

う~ん。。。。。

そして、何度か出てくるキスシーンの画一的な演出。。。

なぜ相手が違って、あんなに似かよったシーンになってしまうの?

あそうか、ワタナベくんにとっては、

相手は「女」に過ぎなくて

直子もミドリもレイコさんも一緒なのか???

そうゆう遠まわしな映像表現なの?

そこまで計算されているならすごいけど。。。

原作の持っていたエロティシズムを表現しようとしてるなら失敗だよなあ。

女性が全員、かなり違うから、出来事としてそれぞれに引き裂かれる想いがあって、

強烈なんじゃないのかな。

普段人目にさらされない部分である性描写って

一気に見る人のリアリティを失うと思った。

(逆に画一的なことをしている人にとってはリアルなのか?)


と新春から放言失礼しました。


でも、冒頭に書いたように


映像も俳優陣も素敵です。


原作の素敵さ「エロさと男女の永遠の不理解の哀しさみたいなもの」

が抜け落ちた中でも、残る素敵さのある映画です。



原作読みなおしたくなりました。