『強くなる本』岡本太郎より

 

(この人生に、自分という宿命を設定し、それに賭けて嬉々として遊ぶ。それこそ<生きる>に価する。

 ただし、その遊びは全存在をかけて、血を流しながら遊ばなければならない。だがそれが重々しかったり、悲劇的である必要は少しもない。一見、軽々と。そして嬉々として。まるで仔犬がたわむれるように、おおらかに遊ぶのだ。)

 

(挑むからエネルギーが湧き出るんだ。疲れていようといまいと。それが生きるってことだ。無条件に闘うことを前提にして、自分をつらぬいていくことが大切なんだよ。)

 

(人間全体、みんなの運命をとことんまで考えたら、ひとは必然的に孤独になる。孤独であるからこそ、無限の視野がひらける。とことんまで自分を突きつめ、それに徹しきれば、その究極に豁然と人間全体の同質的な、一体となった世界が展開する。それが人間の誇りだ。)

 

(だから猛然と自分を強くし、責任をとって問題を進めてゆくべきです。己れ自身に対しては逆に残酷に批判的で、つまり謙虚でなければならないのです。)

 

(なるほど誤解のおかげで損をすることがある。それは、しかし、ながい眼で見れば些細なアクシデントであるにすぎない。そのような起伏こそ、人生におけるニュアンスであって、それをのり超えていくところに、言いようのない味わいがあるのだ。)

 

(純粋であればあるほど、誤解される。・・・世の中の多くの人々は妥協の中で生活している。まったく判で押したように形式的に日常行動し、そればかりか、人を見るときもその枠でしか見ないのである。

 だからそれを外れた、というよりも踏み越えてほんとうに生きようとする者をいぶかり、逆に色眼鏡で見る。

 むしろ本能的な敵意を抱くのだ。あえて信ずることをおしつらぬき、純粋に生きようとすれば、あらゆる罵言、ほんとうの反感、抵抗を覚悟しなければならない。だから私は言うのである。

 ほんとうに生きるものこそ誤解され、誤解される分量に応じて,その人は豊かなのだと。)

 

(目的のない可憐さ、その誇り。私には絶望的な感動であった。些細なことだ。しかしあの花の美しさは、残酷に思い出に食い入っている。)

 

(自分で描きたい、というのはつまりなにか外のものではなく内にあるものを溢れ出させたい、表現したいという衝動だ。

・・・心の中にはどんなに歳をとり苦労してからでも、こどもがいるのだ。こだわらない気持ちで描けば、必ずなにか溢れるような豊かな直截な生命感がうち出されるのに違いない。

 それは当然観るものを同質的に楽しませてくれる。うまくなくてもきれいでなくても、そういうものが生活のなかに入ってくれば、それは豊かなふくらみとなり、生きがいを感じさせずにはおかない。)

 

(卑小な俗人の時代にこそ、芸術家は激しく、純粋に、失われた人間存在の全体性をとりもどそうという根源的な問いに身を賭けるのです。

 しかも、事実、今日の芸術は、それぞれ大いに独自の相をおびていながら、芸術運動として、太い連帯のきずなをもって、史上かつてなかった全世界的な規模・相貌をもって展開されつつあるのです。)

 

(ひろい世界のなかに、独自な生命感をひらくこと。ひらききること。それこそ生きがいではないか。)