戦国最後の戦い、大坂夏の陣。
かつては隆盛を極めた豊臣家最後の時でもあります。
歴史に多少でも詳しい方なら、なぜ豊臣家は滅んだのか?
と思われる、考えられる方も多いと感じます。
私もそう考えたのですが、、
歴史の流れを見ると、滅びる方向にどんどん進んでいるので、
そういう運命だったのか?
とも感じます。
歴史家の解説では以下に集約されるようです。
・秀頼、淀殿 親子は難攻不落の大坂城が出ることがなかったため、世間の流れを読めなかったのか?
徳川家康が源氏の長者・征夷大将軍に就き、嫡子・秀忠に将軍を世襲しても、
依然と豊臣家は臣従を示さなかったようです。
所領は65万石の一大名に落ちましたが、かつての金銀山や所領から一定の収入があり、実際の経済力は石高以上にあったようです。
大坂冬、夏の陣(冬の方が先)では豊臣家恩顧や反徳川系の大名は誰も味方せず、
浪人だけが頼りでした。
・淀殿は秀頼を自分で育てたため
当時高貴な身分の子供は親が直に育てることの方が珍しいものでした。
理由は情が移るからです。
情が移ると公私混同になるためですね、
厳に秀頼は自ら合戦に出馬することはありませんでした(母淀殿が止めた とか)。
それは指揮にも関わります。
・秀吉の遺産、栄光
位人身を極めた秀吉には莫大な財産がありました。
家康はそれを危惧し、豊臣家に寺社などの改修を勧め、減らすようにしたそうです。
そして少し前まで天下を納めていた豊臣家という面子や栄光を捨てられなかったのでしょう。
諸々を築いたのは秀吉の代なのですが、、、
ちなみに秀頼の出世は秀忠よりも早かったのです(確か10代で右大臣)。
大坂夏の陣、開戦前は
非戦闘・穏健派 大野治長、後藤又兵衛
中間 真田幸村(信繁)、木村重成
強硬・抗戦派 大野治房(治長弟)、長宗我部盛親
不思議なのは一部の抗戦派が大きな声を出すとそちらに引っ張られてしまい、
開戦になったようです、、
後藤又兵衛、真田幸村、木村重成は戦死、
長宗我部盛親は旗色が悪くなると逃げたようです。
元ネタは毎度の市橋歴史チャンネル・なるほど歴史ミステリー になります。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」
ということでしょうか。
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