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a piece of peace ~my words ~

育自も十何年目になりました。今の夢はかっこいいおばぁになることです。

今年も僅かな時間を残すだけになりました。

って言うても何かが劇的に変化する訳でもなく、何時ものように日付けが変わるだけなのだけど。

人は何かと区切りを付けては何かを始めたり終わらせたりする。
そうでもしないと物事に始末をつけられないんだろな、きっと。

かく云うあたしも、一年の目標を立てて其れ成りに意識してきた。

受け容れる。

ふと思い立ち掲げた割には難しいマニフェストだった。
考えては立ち止まり、進んだり退いたり、時に蹲りながら今日に至るわけですが、



どうなんだろね、どうなんだろな。
わかんないや。

でもね。
一生懸命考えたよ。
そして自分と向き合う時間を過ごしたかもしれない、今までで一番。


そして何よりも、
こんな自分を、前より好きになれたかもしれないな。

それはやっぱり、あたしと繋がってくれてる人達がいる、という事が大きい。有り難いなぁ。嬉しいなぁ。


さて。

来年は巳年。
そうね、蛇のようにニョロニョロ←何をやねん


受け容れることは持続して、自愛、慈愛の精神で^_-☆

今年も一年、ありがとう。
来年も、これからも、よろしくね。

受け容れる という言葉、

この一年それだけを意識して過ごしてきた。



来るもの拒まず、と思ってみたら

重すぎて持ちきれず


ある程度選り分けていくんだなぁと感じつつ

考え過ぎたり

考えるのを止めたり


塩梅が難しいなぁと思いつつ

じゃぁ一体いい塩梅とはどれ位なのかも分からず


結局一年が終わろうとしている





でも今感じているのは








受け容れたくない、と思っている事実を


受け容れることも必要だ、ということ



そうしなければ多分ずっと後悔するんだろうな








それが今の




こたえ

爪を切りすぎてしまった。

小さい時からピアノを習っていて、爪は短くしていなさいと常々言われていたからか、よく深爪をする。

今やピアノを弾く余裕がないため、
もうそんなに切らなくてもいいのだけれど。

パチン、パチン、という心地よい跳ねた音に安堵しながら、気付いたら切り過ぎているのだ。何時も何時も。

今しているアルバイトも、爪に土塊が入り込まないように、なるべく短くしておいて、と言われたのは良いのだけれど、何事もやり過ぎはよくない。

痛いのだ。

それでも生えてくるまでひたすら待つしかないのだ。





物事全て、行き過ぎは一つも良い事はない。
考え過ぎだってそうだ。
良い事は、ないのだ。




それでも、新しい事を始める面倒さに負けて、意味のない慣れという安堵感に包まれて、とどのつまりには自己嫌悪に陥るのだ。



嗚呼何時になったらこの空間から脱する事が出来るのだろう。


準備は整いつつある。


あとは切り過ぎてしまった爪が生えてくるのを、待つだけなのだ。

あの人やこの人や

彼女や彼や

あいつやこいつのことを考えるより


本に読み耽ったり

音楽の中に塗れたり


空想していた方が気は楽だな





でもこの感覚も


あの人やこの人や

彼女や彼や

あいつやこいつがいるからこその事で




とどのつまりは



僕が僕自身を愛せてない証拠だ








嗚呼馬鹿馬鹿


切ないよう

傍にいてよう





嗚呼 然様なら。

電話の向こうで甲高い声で喚くように話しているのを

私はうん、そうだねぇと言いながら、ぼんやり聞き流していた。


彼女は所謂、クレーマーと噂されている人だ。


彼女が話す内容はいつも同じ。

子どもの、通学団でのこと。


うちの娘が、

うちの娘は、

うちの…



そうか、それは大変だと思う。辛い思いをしたね。




私も親の端くれ、子が辛い思いをしていると想像うと、代わってやりたい、と思う時もある。

けれどもまぁ子が男の子だから、というのもあるかもしれないけれど、

子どもは子ども同士で考えて解決していくものだし、

オトナが考えているよりかはさっぱりしていて、そんなもんかと意とも簡単に乗り越えていったりもする。



でも何よりも、内容は、実は何てことないことなのだ。

「うちの子どもが可哀想」というレッテルを実の親が貼って、然も守っているかのような。







私は争いが嫌いだ。


誰かが誰かのことを影で悪く言うのも好かないし

自分の誰かに対する負の感情を晒すのも好きではない。


もし何かが悪い状態で、それを善くしたいが為に話すのであれば好いのだけれど。








もちろん私だって血気盛んな時代はあって

オトナに楯突いてみたり反抗してみたり

トモダチや後輩にキツい言葉を浴びせたこともある。

姉妹喧嘩だってしたし、親とも言い争ったことだって多々ある。


そういう時間を経験し苦い思いもしたからこそ

今は成るべくして争いを避けている。


そして事が荒立つ前に、丸く収められるものならばその為の努力は惜しまない、と

思って過ごしてきたのだった。










そんな過程があって


色々な場面で多くの人たちとのご縁があり、関わりを持ってくれてる人たちとの間で、

眉をひそめた表情を見るよりかは笑った顔の方が好いに決まってる、と思いながら

日々過ごしているのだけれども、




万人誰しもが争いを好まない、というわけでもないんだな、と最近知った。



「いや、あたしだってさ、こんなこと言いたかないよ?

でも誰々さんがさ、こう言うんだもの、腹が立つよね?」




彼女は必ずこう言う。

彼女だけではない、言うなれば好んで争いたがる人達は同じ台詞を話す。




「好きで争ってるんじゃないのよ、ただ相手がこう言うから…」


そうやって自分ではない誰かの所為にして、「好きで」争っているのだ。




そんな行動が、自身の繋がりを絶つことになるとは思ってもいないんだろうなと思う。

その周りにいる人たちはきっと同じように、あなたの事を良くは思ってない、そのことを

気づかないだなんて、寂しい話だ。








争うだなんて、何の根本的解決にもならないのにな。

自身の負を相手にぶつけて、その時はすっきりするかもしれないけれども、

その撒き散らした負は誰かを傷つけ、あなたを遠ざけているのに。




あなたと私の間も、どんどん離れていっているのを、

きっと未だ気づいてないんだろうね。



とげとげよりも、まぁるいほうが、いいのにね。


a piece of peace ~my words ~



こんなにも難しいことだとは、思わなかったの。





こんなにも苦しいことだとは、想像もしなかったのよ。

心に決める。



それは覚悟であって

それは選択であって

それは決心である。






それでも揺らいだり、悩んだり、

悔やんだり、責めたりして


いっそ止めてしまおうか

もう終えてしまおうか


自身の意思の弱さに呆れながら

今の今に至っている。








だいじょうぶだよ。

大丈夫。


そういう言葉で、包み込んで欲しいのにと

心の何処かで願っているうちはきっと



まだ決心されていないんだな、と思う。









そこまで分かっていて出来ない僕。






弱弱しい、僕。

ここの所なんとも暗い内容でごめんなさい。


どうか誰も見てませんようにと思いつつ

ここでなら書いていい、みたいな自分の中であって








この1,2ヶ月くらいは本当に辛かった。

辛い、と口に出してしまうと辛いので言いたくなかったけど、辛かった。


でも、生みの苦しみだったとでもいうのか

今は少しずつだけれど落ち着きつつある。




何が辛かったのか

何に苦しんでるのか

分からなくて藻掻いていたと思っていたのだけど

それが何だったのか、気づいてしまった、というか

それが何か知ってたから辛かったのかもしれない。



そして弱気なあたしは

それから何とかして如何にかして逃げようと、藻掻いていたのだった。







これと向き合わないと、本当に今の苦しさからは解放されない。

それが、辛い。




けれどいつまでも逃げていられないんだな、という時期が、きたみたいだ。

















対峙する時期が。

まっすぐにね。


ボールをさ、投げたらさ、

まっすぐ返ってくるものだと思ってたんだ。



まっすぐ、まっすぐに。

えぃっって投げたらね。

ポーンと快音たてて、戻ってくるもんだと。





でも


当てた壁が歪んできたのか

投げたボールがイビツになってきたのか


かえってこなかったり

違う方向へいってしまったり




投げたボールが、強すぎたんだろうか

ボールに、イガイガがついていて、壁を傷つけたんだろうか




ボールのメンテナンスも

壁のメンテナンスもしてきたつもりだったけれど


それは「つもり」だけだったんだろうか

できてなかったんだろうか




ボールもかえってこないし

その壁はなんだか見えなくて









途方に暮れてボールを探しているんだ。

に、居ました。


下ばっかり向いてたので、それが下り坂だとも気づかず。


いや、気づいてたのかも。

知ってて下がってたのかも。




でも時に下がって、底辺を彷徨うことも、必要なんだと思った。



もちろん、40年近く生きてきて、

底辺歩いた時期は、何度かある。


でもその都度、自ら何かをするでもなく、

ただ誰かが手を差し伸べてくれるのを待って、

そうやって繋がってくれている人たちに助けてもらってきた。

そうして、また落ちてしまっても、大丈夫だって大きな甘えを抱えたまま、

同じことを繰り返してたんだ。



前のひとりごとを書いた時も、そういう気持ちだった。




でもね、それは間違いだって、ようやく気づいたよ。





底辺にいると、空が遠い。

視野もとっても狭い。

自分で落っこちた穴は、とっても小さいと知る。


でも


やっぱりあたしはとても恵まれていて


大切な人たちに、ヒントとか糧とかをもらって

手を握ってもらって、上を見上げられた。



地上に、上ってこれた。

もう落ちまい、と思った。



この人たちに、二度と迷惑をかけたくない、と思った。




自愛って、苦手だったし、今も戸惑うけれど

やっぱり自分を何とかしてやるのは自分自身で、

弱っちぃ自分を受け容れてやれるのは自分自身で。




あぁ。



このことかぁ。って

思ったんだ。






受け容れるの何たるかの、ほんの一部分かもしれないけれど、

自愛もその一部なんだと。





この歳にして、礎的なものが、少しできたのかな、って







そしてやっぱり

繋がってくれてる人たちに、ありがとうの思いが、あふれてる。


ごめんね、というより、ありがとうをいっぱい、伝えたい。










ありがとう。