(タイトルは村井理子さんの著書のもじりです)
10月の初めに日本から戻ってきたばかりなのに、また1ヶ月のうちに父が亡くなったため日本に緊急帰国しました。
日本でのお葬式や死後の手続きなど全く知らなかったので、本当にてんやわんやでしたが、一応の区切りをつけたのでアメリカに戻りました。自分への忘備録のために徒然としたためます。
バックグラウンド情報としては、父はちょっとは認知症が始まっていたものの、去年の9月に里帰りした時は一緒に温泉に旅行に行くぐらいはできていました。1人で男湯に行くのは危ないので貸切風呂を予約して入ることができ、また夕食もホテルのレストランで取ることはできていました。交通手段は駅まではタクシーで、でも温泉場までは電車に乗って行くことができました。
しかしペースメーカーを入れないといずれ心不全になると言われ、12月に手術をして一週間ぐらい入院して、その時に拘束されていたようで、家に戻ってからは徘徊が始まり母もよく寝れない日々が続いていました。私もクリスマスの後にすぐに帰国して母を手伝ってその間病院の付き添いなどもしましたが、家から病院まで遠いので今後は在宅診療に変える、ということになりその主治医からいずれ睡眠薬を処方してもらう、という話をつけてアメリカに戻りました。あの時の里帰りは私は夜ほとんど寝ることができず、かなり消耗し切っていました。
睡眠薬が処方されても効き目のある投薬に落ち着くまで時間がかかって大変でしたが、2月からは父は週2回デイサービスに通うようになって、母がその間少しは休めるという状態を作り出していました。そして次に私が帰国したのは5月です。この時はまだ私のこともわかっていたし、自分で歯を磨いたり洗顔したりとできていました。夜の徘徊も少なくなっていましたが、口癖は「なんかうまいものないか」で食べても食べても満腹感が満たされないようで、それも認知症の症状の一種だとわかっていたので、しょっ中はあげないものの、あまりにうるさいとバナナを一本あげたり、小さいパンを食べたりしていたのです。デイサービスにも嫌がらずに通って、そこで大きなお風呂に入るのが楽しみなようでした。そして父がデイサービスに行っている間、私は母をアフタヌーンティやランチに連れ出してあげてました。
9月の下旬に帰国した時は表情も虚で、私のこともあまりわからず、老化のため咀嚼がうまくできなくなってきていて食事の時とか咳き込むことが多くなっていました。口の中に入っているのに、もっとかき込んでちゃんと噛めてないのに飲み込む感じでした。食事の時はご飯をお茶碗に全部よそうのではなく、少しずつご飯もおかずも入れて、一口食べてはまた一口入れてあげる、みたいなことをしてとても時間がかかっていました(私がつきっきりでそれをしている間に母が食べる、そんな感じ)。洗顔も歯ブラシももちろんつきっきりでした。夜は睡眠薬を飲んでいても起きてきていたのでもう熟睡できなくなっていたようです。
私がアメリカに戻ってから二週間後に熱があるからと訪問医療のドクターがいらした時、誤嚥性肺炎を起こしている、と告げられました。誤嚥性肺炎とは、食べ物や唾液、胃液などが気管に入り込んで肺に細菌やウイルスが感染することで起こる肺炎です。一度咀嚼の様子を専門の看護師さんに見てもらっていたのですが、認知症のため誤嚥防止のトレーニングはできないからとろみをつけた食べ物を与えるように、と言われたばかりでした。ドクターは入院して点滴を24時間受けるのが最適の治療だけれど、と言われましたが、母はもう入院はさせたくない、父が騒ぐと母が呼ばれて行くだけでも大変なのに、行っても15分ぐらいしかいられないし、拘束されるのも可哀想だから家で私が見ます、と言って「ではできるだけのことをしましょう、訪問看護師が毎日点滴にきます」ということになりました。
でも父はこれ以上誤嚥をしないためにも絶食をしなくてはいけなくて、また今まで飲んでいた薬も飲めず、肺炎になってからの一週間は母は想像以上に大変になり、とうとう足が動かなくなって寝込んでしまったのです。その後ドクターが私を交えてもう一度入院の話をしたい、というのでフェイスタイムで話し合いました。ドクターは母のことを心配して、一旦父を病院に入院させて母の体力の回復したのち、退院するというのはどうか?と聞いてきて、私も父のことを理解して拘束とかしない病院なら、ということで母も納得して入院したのが10月30日でした。この時は二週間から1ヶ月の間入院してから家に戻ってくる、というのがドクターも母も一致した見解でした。
でも入院して一週間で病院から朝電話があったのです。