その日はアメリカの大統領選挙の次の日で、私は暗澹たる気持ちでいたけれど、翌日から楽しみにしていた旅行に行くことになっていたので、パッキングをした後に美術館に出かけていた。
美術館について30分もしないうちに夫から電話があって、実家の母が電話してきて留守電にメッセージを2回も入れていて、声のトーンからしてただ事ではないようだから、すぐに電話して、というのだ。美術館の階段で人がいないところからかけてみたら、すぐに出て「朝病院から電話があって、お父さんの呼吸がおかしいからすぐに病院に来るようにって言われた」と言う。私は出先だからすぐに家に帰って病院に電話してみる、と一旦切って自宅に戻る。自宅に戻る間にもう一回電話して、「万が一のことがあったら、看護婦さんにはお父さんは互助会のメンバーだからそこに連絡してって伝えるのよ」とリマインドしておいた。
と言うのも互助会に入会した時、エージェントの人が病院は葬儀屋と契約しているから、互助会に入っていてもそれを告げずに病院から別の葬儀屋のところに連れて行かれたら、互助会の方からは何もできないから、必ず病院には互助会に入っている旨をつげるように、と言われていたのだ。
家について病院に電話すると、担当の看護婦さんがすぐに出て、父は朝のおむつ替えの時に呼吸をしていない様子だった、と言うので「では父はもう死亡したのですか?」と聞いたけれど、医師が来て死亡宣告するまではそう伝えることはできない様子だった。母はまだ父がもう死亡しているとは思っていないで病院に向かっていると思ったので、心が締め付けられた。母は後から入院してオムツを病院に持って行った時に、会いに行ったら家に帰りたがるだろうから、と会わなかったので、それを悔やんでいた。私は「会いに行っても眠っていたかもしれないし、お父さんは最後の最後まで家で過ごせていたんだから悔いはないと思うよ」とぐらいしか言えなかった。
そこから私は自分の旅行を全部キャンセルし、日本行きの片道のチケットを買って荷物をスーツケースに詰め直し、日本に行く支度をした。全日空に電話して事情を説明したけれど、まずは自分でチケットを買って後日死亡診断書を送る、なんて言われたので面倒だからユナイテッドの羽田便にした。日本から戻ってきてまた1ヶ月で帰国するとは思ってもみなかった。
家に着くと母は何かを探していて、何を探しているの?と聞いたら通帳などをしまっているポーチが見当たらない、病院に行く前に大事なものだからといつもの場所とは違うところにしまったんだけど、思い出せない、と言うのだ。母は旅行とか行く前にこういう大事なものが入ったものをしまい込むのだけれど、病院に行くって泊まりがけで行くのじゃないのにどうしてそんなことをするのか、と不可解だったけれど、きっと気が転倒していたんだろう。やんや言っているうちに私が見つけたけれど、こう言うことが私の滞在中によくあった。大事なものを引き出しの中にすぐ仕舞うのだけれど、それがなかなか見つからないのだ。だから大きな缶の中に大事そうな書類や郵便物は全部そこに入れるようにと約束した。
なぜ通帳を探していたかというと、故人の口座は死亡したという連絡をするとすぐに凍結されてしまうので、その前に引き出せるだけ出しておこう、と言うことになったのだ。死亡届は葬儀屋から役所にはすぐに提出されるけれど、役所が銀行に知らせると言うことはないので(誰がどの銀行に口座を持っているかなんてわからないし)、故人の家族が知らせるまでは凍結されない。今はATMで引き出せるから、本人でなくても大丈夫だ。口座が凍結されたら手続きを経て凍結解除ができるけれど、それがまた大変で、それはまた後日。
母は見るからに憔悴していて心配だったけれど、とにかくちゃんと食べてよく寝る、それをしてもらおうと思った。本人がいかなければいけないこと以外は私が処理して、それが終わったらアメリカに戻るからね、と言ったら少し安心したみたいだ。そして年末は帰国する予定はなかったけれど、初めてのお正月を1人で過ごさせるのは不憫だから、大晦日にはまた帰ってくるのよ、お正月を一緒に過ごそうね、と言ったら嬉しそうだった。夫には申し訳ないけれど、理解してくれてとても感謝している。
その夜はお風呂に入ったらかなり疲れていたので割と朝まで眠れてよかった。翌日には互助会のスタッフとお葬式の打ち合わせがあったから十分休みたかった。このお葬式ってのが家族葬なのにお金がかかるものだった。