んー、カケヒキってどう捉えてます?

人によってはすごく狡くて猾くて嫌悪を示しかねない言葉なんだけど。
でもカケヒキってそんな悪く言われるようなモノなんだろうか?


僕自身はね、そこまで否定的にカケヒキを見てはないかな。


カケヒキってね、「賭け引き」でも「欠け引き」でも「掛け引き」でもなく

「駆け引き」なんだなぁ。

つまり突っ走るときは相手の本陣目がけて全力でしゅぱーーーんって馬で駆け、
やばいぞって時には馬の手綱を引っ張って退却。

これが駆け引きであって、小手先テクニックが駆け引きなんかじゃない。


それがなんで「駆け引き」が悪し様に言われるかって?

もうね、それは多分だけど「駆け」がなくて
「引き」がメインに語られるからなんじゃないかな。

相手の気をひく為に、やれメールはすぐ返すなだのデートの誘いは3回に1回は断れだの、
その手の本読めばくっさるほど出てくるわけだ。

もうねぇ、アホかとバカかと。

そんな小手先でどうにかなるほど人の心は甘くもないし
実践してんじゃねーよ、ボケが。

そんなテクニックで、よーしこれで落としちゃうぞー、とか言ってるの。
もう見てらんない!


駆け引きの本質ってね、言ってみれば「機を窺う」って事なんだと思う。
元の言葉がそうであるように、進退を決定するって事なんだと思う。

だからここぞって時には一心不乱に突っ走って駆ける事が大事なんだと思う。

だのに変な小手先テクニックに踊らされるもんだから
肝心要な時にずどーんって相手に自分の正直な気持ちをぶつけることもせず、
引いて引いて引いて引いて・・・。


実は駆け引きをするって、とってもとっても大事なことなんじゃないかな。
「機を窺う」ってとってもとっても重要なことなんじゃないかな。

タイミングって思ってる以上に大切だもん。

だから駆け引きを行うってね、相手をよく知る、自分をよく知る、まわりをよく知る
って事なんじゃないかな。

それではじめて、今駆けるべき時が見えてくるんじゃないかな?
それではじめて、今引くべき時を知るんじゃないかな?


だからね、得てしてどストレートに押して押して押して押して
駆け引きなんてセコい真似できるかーって息巻いてるのに限って
相手の気持ち考えずにケーワイにずかずか来るんじゃないかなぁ。

誰にだって今は来てほしくない瞬間だってあるし、
今はそれ以上踏み込まれたくないときだってあるもので。

反対に今貴方の気持ちが知りたい、
貴方が欲しいって思ってる時だってあるもので。

そいつを察知してやる。空気を読んでやる。
これが駆け引きの本当の妙だと思うのです。

決してね、「押し引き」じゃなく「駆け引き」でないと。


「これ以上突っ込んだ事聞いたら、嫌がられるかなぁ?」

「これ以上接近しすぎたら、ウザイって思われないかなぁ?」

そんな事を悶々と考えつつ、相手の気持ちになって好きな気持ちをぐっとこらえ
抑えるところは抑え、

(;´Д`)ハァハァ/lァ/lァ/ヽァ/ヽァ 

って夜中に奇声をあげながら地べたをのたうちまわり
心臓を鷲づかみにされながら、きゅんきゅんした経験あるでしょ!

いあ、ない人も居るんだろうけどw

声をかけるにも目の前に立つのも恥ずかしくて
ほんとはもっと話したい!もっと一緒に居たい!って思いつつ
でも近寄れなくて、そっと目が合うだけで頬を染め

(~O~;)アン(;~O~)アン(~O~;)アン(;~O~)アン(〝ロ゙)アアアアアアアアア

ってこれじゃただのおかしな変態なのですが、
(〃´o`)=3 フゥって切なく溜め息をついちゃったりなんかして。

んで、今日こそは気持ちを伝えるんだって自分に言い聞かせ、
いつどこで告白しようかって作戦をたて、
ドキドキしながらその時を待ってたことあるでしょ!

いあ、ない人も居るんだろうけどw


でもこれだって立派な駆け引きなのですよね。

まぁここまで極端な例をださなくても、
微妙な会話の機微を読み取って、今これを話すべきか話すべきでないか
そういうものを会話のジャブから読み取ろうとするのも駆け引きなんだろうし。


結局ね、恋愛ってどこまでいっても自分ひとりじゃ成り立たないし、
相手あってこその恋愛であって、相手の気持ちを汲むって事が
駆け引きの一番大事な本質なんじゃないかなぁ。

気持ちを汲みながら駆ける引くを繰り返し、
昨日より今日、今日より明日、って感じで少しずつ距離を縮めていくのが
醍醐味なんじゃないのかなぁ。

相手のヒトコトヒトコトに一喜一憂し、
駆けるべきじゃない時は心臓を握り潰される思いで這いずりのたうち回り、
相手が心開いた時にはこれでもかあああああああってアイのコトバを投げかける。
これでいいんじゃないかなぁ。

こんな気持ちのうねりがあるから、恋愛って切なくも楽しいんじゃないかなぁ。



つーわけで!今日もはりきって「駆け引き」しましょうか!

生きるという事は辛いものです。
生きるという事は本当に辛いものです。

生きると言う事は常に何かを選ばなくちゃなりません。
生きると言う事は常に何かを諦めなくちゃなりません。

それでも生きると言う事は
常に自責と後悔に生きなきゃなりません。

けしてけっして与太話を吹聴し、戯ける道化じゃございませんが
選んだからにはしようがない。
選んだからにはこれまた本当にしようがない。


けれどもきっと其れは、其れを選ぶより他仕方なかったのです。
誰も其れが最悪と思って選んだ訳じゃないのです。

きっときっと良かれと思い選ぶのです。

例え其れが無惨な結果になろうとも
其れは後から降ってきた、湧いた事情でしかないのです。

そんなことを嘆いてみてもはじまらない。
そんな読めなかったゆく先を憂いてみてもはじまらない。

だって確かにその時は、慥かに最善を選んだ筈なのです。


だから、きっと其れで良かったのです。
きっと其れで間違いなんぞないのです。

けれど人は、それでも自責と後悔に生きるのでしょう。


生きると言う事は本当に辛いものですね。



幼い頃は仲が良かった宿海仁太、本間芽衣子、安城鳴子、松雪集、鶴見知利子、
久川鉄道ら6人の幼馴染たちは、かつては互いをあだ名で呼び合い、
「超平和バスターズ」という名のグループを結成し、秘密基地に集まって遊ぶ間柄だった。

しかし突然の芽衣子の死をきっかけに、彼らの間には距離が生まれてしまい、
それぞれ芽衣子に対する後悔や未練や負い目を抱えつつも、
高校進学後の現在では疎遠な関係となっていた。

高校受験に失敗し、引きこもり気味の生活を送っていた仁太。
そんな彼の元にある日、死んだはずの芽衣子が現れ、
彼女から「お願いを叶えて欲しい」と頼まれる。

芽衣子の姿は仁太以外の人間には見えず、
当初はこれを幻覚であると思おうとする仁太であったが、
その存在を無視することはできず、困惑しつつも芽衣子の願いを探っていくことになる。
それをきっかけに、それぞれ別の生活を送っていた6人は再び集まり始める。


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っというわけで公開初日に見てきたわけですが、
さすがTV版では号泣する方も多かった涙腺崩壊系アニメとして、
入場時には「ほら泣いてもいいんだよ?」っと言わんばかりに
ボックスティッシュが配られました。

この過剰なまでのこれでもかこれでもかと襲い掛かる泣き落とし演出に、
巷では興趣がそがれる向きもあるのだけれど、
僕自身としては斜に構えた似非ニヒリストなどよりは
素直に涙を流される方のほうがよっぽど好感が持てるかな。

はてさてそんな今作品。
ざくっと有態に述べればTV版のエクストラ。
特典映像とでも言えば良いのだろうか。
まずTV版を視聴の上、1年後の超平和バスターズを
語られなかった本間芽衣子の想いと本編回想を交え眺入るアニメ
とでも言えば良いのであろうか。

正直なところこの映画だけ見ても、初見の方には辛いであろう。

っと苦言を呈しつつも、本編を視聴している者にとっては
心抉られる程に切なくも、安堵に胸を撫で下ろす映画でもありました。


ま、劇場版のレビューとしてはこれ以上述べることはもうありませんΣ
なので本編レビューでも書いてみようかと。



ボタンのかけ違いをなおせないままに過去に縛られ煩悶懊悩する、
とある青年達の葛藤と軋轢。っというのが物語の骨子になるのかな。

本当ならば次の日にはごめんねの一言で、
すべてが何事も無かったかのように過ぎ去っていくはずだった。
けれどもその伝えるべきごめんねの一言を告げられないままに
泉下の客となった本間芽衣子。

そして彼女に告げる事が出来なかったその想いは少年達の心に蟠り、
消えない心の傷となって、いつまでも彼等を苦しめていった。
まさに青春の蹉跌と言えるのであろうか。

もしも、もしもあの日あの時あの場所でその一言を告げられていたのならば。


誰もが信じて疑わない明日という日は儚くも必ず訪れるものに在らず。
伝えるべき言の葉はやり場をなくし、伝えられなかった其の事の葉は
心のずっと奥深くに沈み澱む。


そうして鬱積した想いは往々にしてニヒリズムを生み出し虚無に飲み込まれてゆく。
心は悲鳴を上げているのにも関わらず。
実にニーチェでもないのだけれど、「めんまは死んだ」っと言ったところか。

物語的にはそんな青年達の前に姿を現した本間芽衣子に
各々が想いをぶつけることで虚無の超克を見る事ができるのだけれど。
本間芽衣子の願いが宿海仁太を泣かせる事にあったことをメタファーとし、

<感情の吐露>

人と人とが向き合っていく中で如何に想いを告げていく事が
肝要であるのかを訴えかけようとした良アニメ。

笑いたい時は笑えばいい、怒りたい時は怒ればいい、泣きたい時には泣けばいい。

それ故にこそ本作は視聴者を泣かせる事に拘ったのではないのであろうか。
日々感情の抑制を強いられ、強いストレスに曝され、心の内にその想いを封じ、
恰もそうする事が最善であるかとばかりに
心をなくしがちになっている人々への警鐘としたかったのではないのだろうか。

ま、そういった心を押し殺すが故の虚無感からの超克は結局のところ
感情の爆発以外にないんじゃないでしょうかね。

ほらほらほらほら、さぁさぁこれ観て泣き崩れていいんだよ!


しかしずるいなぁ。死って一方的なのですよね。
もうそれ以上想いを告げることも謗る事さえもできない絶対的な別離。

誰かとお別れするのは本当に哀しいのです。
誰かとお別れするのは此の身を引き千切られるかの様に辛いのです。

だから人は、例え其れが運命の前にいつか終焉を迎えるものであったとしても、
嘘と願いを織り交ぜた永遠という言葉にすがりつくのでしょうか。
もう決して離れることのない相手を渇望するのでしょうか。


それ故に人は、自分にとって最愛を渇求するのでしょうか。


でも其れはきっと先逝く者にとってもそうなのでしょうね。

だからこそ、別離を決意した本間芽衣子最後の言葉「もっとみんなと一緒に居たい。」が
心に、五臓六腑に染み渡る。



あの夏に咲く花 -勿忘草- の花言葉を噛み締めながら
夏の終わりにこのレビューを記す。


Comme des Essais