『ロマンチック』

みんなはロマンチックという言葉にどんな想いを馳せる?


繰り出せばそこかしこで『ロマンチック』という言葉に街は溢れ返り、
うら若き乙女たちに恋人との甘い蜜月をイメージさせるキャッチーなフレーズで、
ややもすれば世間一同、頭の中がそれはもう真っピンクだ。

さて僕らが何気に使っているこの『ロマンチック』なんて曖昧でちっとも要領を得ない、
とあるこんな抽象的な言葉をみんなはどんな風に使ってるんだろうか?


辞書なんて引いてみるに

現実を離れ、情緒的で甘美なさま。
また、そのような事柄を好むさま。
空想的で波乱に満ちたさま。
情熱と理想にあふれたさま。
小説にありそうなさま。
ローマン的。

ほんとどれもこれも実におめでたい!

これは人がどのようなシチュエーションにロマンチックさを感じるか、
と言ったアンケートにも見て取れる。

・夜景が見えるレストラン
・観覧車の一番上で告白
・彼の家で近所の花火大会
・東京タワーの明かりが消えるのを二人で見ていたとき
・他に誰もいない水族館で貸し切り状態
・蛍を見に夜にドライブ

いかにも、いかにも!

なんともまぁドラマチックで日常生活とかけ離れた甘ったるいシチュエーションなんだろう。
ま、そんだけ『ロマンチック』といった言葉に、
日常的でない、現実的でない、おとぎ話のような、といった夢のような世界を見てるんかな。

ロマンチストの対義語として、リアリストって言葉を当てはめる事が多いのも実に興味深いね。
必ずしもロマンチストの対義語がリアリストってわけでもないんだけど。

さってこの「ロマンチック」の解釈に僕はとある情緒を強く感じる。
そうだなぁ、そこに僕がみるものは「儚さ」にでもなるんだろうか。

夢や幻想はいつか覚める。
夢なら覚めないでってよく言うじゃん?

けどいくらそう願ったところで、
いつかは覚めてしまうものに名残を惜しみ、趣きを感じ、
その一瞬の刹那の儚さに「もののあはれ」を感じる。
これが『ロマンチック』の正体なんじゃないだろうか?

そう『ロマンチック』って、きっと日本でいうところの
『もののあはれ』なんじゃないかなぁって思うんだ。

『侘び』や『寂び』なんてものとも密接に関係してくるような概念なんだけど、
そこにあるのは情緒感というか、儚くも消えゆくものを前に
それでもなおその哀しみを愛でる情感といったところになるんだろうか。
それが『ロマンチック』の本質じゃないかなぁ。


とある映画脚本家はこう述べた「ロマンチックの本質は”喪失”だ」ってね。
『ロマンチック』の本質は儚くも消えゆくものの中にこそ存在するってか。

花は散るときを知りつ、それでもなお鮮やかに咲き誇り、
星々や夜景はいつか明ける夜を偲びつ、煌々と輝き続け、
ましろの深雪は泡沫消え行くさだめを知りつ、はらはらと舞い落ちる。

そのいつか消え行くものをして僕らはその中に美しさを見る。
だからこそ『ロマンチック』に哀愁を覚え、セツナサを感じるんじゃないかな。

ほら、『ロマンチック』には悲恋がよく似合うでしょ?
僕らはどこかもの悲しげなセンチメンタルな物語や音楽に
『メランコリック』を感じ、『ロマンチック』を覚える。
きっとそれは一瞬の刹那の儚さに美しさを見るからなんだろうね。

普段「私はリアリストだぁ!」なんて言ってるみんなだって、
いつか消え行くものを前に感慨に耽る事だってあるでしょ?

例えばいつか醒めてしまう恋だと割り切っていても、
「どうぞこの恋が永遠に続きますように」って祈る気持ちに胸を痛め、
セツナサに心をぎゅーって締め付けられるようなそんな恋はない?

それはね、別にいつかはどうせ消えてしまうものなんだって
割り切りがあったとしてもいいんだ。
けれどそんな永遠の恋なんていうものに、
嫉ましくも吐き気をもよおしつつ、
それでもなおどこかでそんなものに憧れる気持ちがあるんだとしたら、
それはもう立派な『ロマンチスト』だって僕は思う。

きっと『ロマンチズム』って、
夢や希望や願いがたくさんつまった嬉劇と喪失や忘失に彩られた悲劇の狭間が織りなす
束の間の悲嬉劇を愛でる気持ちなんじゃないかなぁ。

そのなんとも言えないぐちゃぐちゃっとした複雑な情緒によってもたらされる
喜びが悲しみを一層ひきたて、また哀しみが悦びを一層ひきたて、
そしてそれがえもいわれない情動をこみ上げさせ、
それによって感極まった心は抑えきれない昂揚感に喘ぎ、セツナイ吐息を漏らす。
これが『ロマンチック』ってやつなんじゃないかなぁ。

そんな意味ではいつか死を迎える僕たちが、今こうして生きている事自身すでにロマンチックで、
限りある命だから精一杯生きようとする僕たちは、みんなロマンチストなのかもしれない。

人は根源的にみんな『ロマンチスト』なんだってね。


ま、だから僕は『ロマンチック』ってなに?って問われればこう答えるよ。

《願いと喪失のカタルシス》だってね。
『おたく』が『オタク』となり、剰え『ヲタク』などと
呼び習わされるようになってもうどれぐらい立つのであろうか。

思えばすっかりと『オタク』は市民権を得、既にサブカルである枠に留まらず
今やポップカルチャーと称してもなんら可笑しくもなく、
オタク的ミームは時勢的に爆発的な拡散能力を手にし、
若年層におけるメインストリームと言って差し支えないものにまで発展した。

元々の「おたく」なる称号は1983年に中森明夫の『漫画ブリッコ』のコラムが
初出展とされてはいるが、それ以前より使用されていた様でもある。

《イベント会場等での二人称代名詞「お宅」が転じて》が通説。

まぁ通説は通説に過ぎず、語源も定まらなければ定義すらもあやふや。
幾度となく定義付けを試みられてきたのではあるけれど、
コトバは一人歩きをし、誰もその実態を掴めるものなど居ないであろう。

ただ言い得る事は初期における『おたく』なんて呼称は
漫画やアニメ、ゲーム等といった極々狭い偏見に満ちた特定ジャンルに於ける、
従来ではファンやマニアと呼ばれた層への蔑称でしか在り得なかった。

其れが『おたく』の先達等による啓蒙及びマスメディアへの積極的介入から、
其の写像の払拭を以て今日では『オタク』へと変化を遂げるに至った。


オタキングたる岡田斗司夫氏は云う「オタクは死んだ」と。

氏の提唱するオタク定義たる

①粋の眼(自分独自の視点で作品中に美を発見し、作者の成長を見守り、楽しむ視点。)
②匠の眼(作品を論理的に分析し、構造を見抜く科学者の視点と技を見抜く職人の視点)
③通の眼(作中を通して見える作者の事情や作品のディティールを見抜く目)

是等を満たす『オタク』の消滅を氏は宣言した。
『オタク』はその偏執的なまでの知識への渇望を忘れ、只の消費者に成り下がったと。

ま、少々乱暴な言ではあると思うのだけれど。

実際的には『オタク』なるものがファッション化し、
消費者までをも『オタク』と見做したが故の稀釈化に過ぎず、
何も氏が述べる処の『オタク』なる存在が消滅したわけではない。

ただの『オタク』定義の変遷の問題であろう。

が、私自身も別に懐古厨という訳でもないのだけれど、
やはり『オタク』は『オタク』で在る前に『おたく』で在るべきであり、
其の圧倒的な知識、洞察力をもって愛と為し、その狂逸なる愛に畏怖させ畏敬させる、
其れこそが『オタク』が『オタク』たるステイタスに他ならないと考える。

現状のファッション化がもたらすステイタスなんぞに何の価値が有るというのか。
『オタク』は異形であるが故に崇拝たり得る。

嗚呼、なのに昨今のこの総オタク化現象はなんの戯事なのであろう。


グッズを買い揃えれば『オタク』なのか。
アニソンを高らかに熱唱すれば『オタク』なのか。
衣装に身を包みイベント会場へ出向けば『オタク』なのか。
「踊ってみた」をニコ動配信すれば『オタク』なのか。
全アニメをエアチェックしさえすれば『オタク』なのか。

『オタク』は其の性質上マニアと呼ぶには余りに性的に倒錯する向も否めない為、
ややもすると「ツンデレ萌え」であるだとか「絶対領域萌え」であるだとか、
其の様な観念を抱く者とて其れほどには珍しくもないのだけれど、
然りとて『おたく』としての本分を忘れ、そんな「萌え」に偏執する輩をして、
『オタク』だなぞと称させて良いものであろうか?

否!否!否!

其の様な者をして『オタク』である等と私は断じて認め得ない。
『オタク』が『おたく』と大凡一致する処であるとするのであらば、
敢えて言おう、最早それは『オタク』でもなんでもなく只の『萌え豚』であると。

大事な事だからもう一度述べる。あー何度でも言ってやる。
そんなブヒブヒとブヒってる輩なんぞ

『オタク』ではなく只の『萌え豚』であると!

『オタク』を僭称し気取る『萌え豚』なんぞは、
本来的に気持ち悪い程のパトスと、其れ以外への無頓着さからくる様相故に蔑視され、
「幼女連続殺傷事件」報道に社会的な位置を定められ、
その後に続くおたく評論家の「宅八郎」に『おたく』の写像を確立させられ、

其れでも尚且つ、

そんな屍を踏み越え進んできた『おたく』達の意思を嗤う豚であると!
そんなものはメディアに飼われた家畜の安寧であると!虚偽の繁栄であると!


よくよく私をして『オタク』だなぞと呼び称される事もあるのだけれど
甚だ違和感を感ずると共に嘲笑を禁じ得ない。

まったく『オタク』をなんと心得るぞ!

そこかしこにて然許りオタク趣味を恥じいる質問等を散見するのであるけれど、
大丈夫だ、問題ない。貴兄は『オタク』なぞでは断じて在り得ない。
『オタク』なんぞという輩がそのような場所で其の本分を忘れ
衒妻を恋求めるとは何の諧謔であろうか。

いいから『オタク』を自認するのであらば、
愛を捧げる作品を客観的に分析する気持ち悪いブログの1本でも記し給え。

ならば私は「そなたに勇者の称号を与えよう。」
そして私は貴兄を讃え、拝し奉ろう。


ま、『オタク』の定義が解決済みでない以上其処に多くの解釈が存在し、
人が居れば人の数だけの定義がある現状であるのだけれど。
其の前提がある限り、確かに私をして私が『オタク』でない等と言えはしない。
なれど、生活をかなぐり捨て作品に没頭し邁進する『オタク』様を前に
到底私は自分が『オタク』であるだ等と僭越にも申し上げる事なんぞ出来やしない。

ならばこそ、いいかい?

『オタク』なんてものは、衆目を気にかけることなく
其の圧倒的な知識量、観察力、洞察力をもって愛と為し、
其の狂逸なる愛故に俗衆を畏怖させ畏敬させ得る存在であらねばならんと考える。

そして私はそんな烈々たる『オタク』に惜しみない賞賛を贈ろう。


甚だ私的ではあるのだけれど、是を以て私は「オタク原理主義」とす。
哲学とは何なのでしょうね。
思想であるだとか、信念であるだとか、一体何なのでしょうね。

ほとほと抽象的すぎる言葉の羅列ではあるのだけれども。


辞書を引けども難解な言葉で詭弁を弄し煙に巻くかの如く、
人に尋ねども首を傾げるほどに其れはあまりに晦渋で。

言ってしまえば「哲学とは何か」を考えることがもう既に哲学に相違ならず、
そこに明確なものを見出し得ない事こそが哲学であるのだけれども。

本来的には知の探求と云うことになるのでしょうか。
物事の本質、森羅万象をどう捉えるか。

そのプロセスに於いて哲学にはよく懐疑が付きまとう。
特段哲学なるものが須らくスケプティシズムであるべきでもないのだけれど、
それでも敢えて語弊を恐れずに述べる、愛智の真髄とは懐疑であると。

ならば懐疑する必要性すら懐疑しなければいけないのではあるのだけれど、
そのパラドックスはまた別のお話。


懐疑すると云うことは、あらゆる可能性を模索する事に他ならないと考える。
当たり前で在ることをして当たり前と捉えていては、
そこに何の可能性を見出すことが出来得ようか。

その為の疑問であり疑義であり疑惑であり、疑念なのではないだろうか。
何も闇雲に猜疑心に囚われ疑心暗鬼に陥れとは言わない。

懐疑を続けるは、其の全て一切の否定に陥りかねず、
虚無の深遠の淵を垣間見る。

であるからにして、デカルトが思索に思索を重ねた末、
「我思う、ゆえに我あり」を虚無からの超克としたように、
懐疑はどこかで折り合いをつけなければ、永遠の虚無の虜囚と成り果てる。

けれど其処に疑い無くば、既に其れは只の思考停止による可能性の放棄でしか在り得ない。

絶えずありとあらゆる角度から疑念を挟みつ、
自らの思考を精査することのみが
己のロゴスに尊厳を附与し確固たる己のアイデンティティを確立させ得る。

畢竟、懐疑すると云うことは自らを見詰直すことに他ならない。

懐疑無きところに思想在り得ず。
懐疑無きところに信念在り得ず。


そうした精査の過程があればこそ、
はじめて其処に己と他者との相違を見つけることが出来得ようと考える。
いつどの段階で他者はその結論に至ったのであろうか。
どの分岐に於いて自分は他者と袂を分かったのであろうか。

そうしてはじめて人は、人を理解し得るのではないのであろうか。
そうしてはじめて人は、他人の言に耳を傾け受容し得るのではないのであろうか。


己のドグマに疑いを懐けない者になんぞ、思いやりなんてものは存在し得ない。

哲学をするって事はそういうことなんだと、僕はそう思う。