抑も、誰でも良いという訳でもないのだけれど、
誰某でないといけないものにも非ず。

better や best なんぞというものを、
唯一無二と錯覚させ得るものが恋ならば、
そう成らしめむとするものが愛だとか情なのか。


ならば畢竟、其は紛いなんぞではなく

其は「マテリアル」

世の中は別れに満ち々々て。


それは例えば、恋の終わりや、愛の終わりやも。
それは例えば、友との別れや、親との別れやも。

けれど世の中はいつだって、いつだって別れに満ち々々て。


それは時に華やかに、それは時に蕭やかに、
それは時に哀しく、それは時に有難く。


けれど別れはいつだって、どんなものだって寂寞で。


出会いは別れの始まりと、人は口を開けばそう言うけれど。
別れは出会いの始まりと、人は口を開けばそう言うけれど。

別れなんてない方が良いのです。
嗚呼、本当に別れなんてない方が良いのです。


それは一つの失恋であったりと。
それは一つの悶着であったりと。
それは一つの転居であったりと。
それは一つの死別であったりと。


別れには、それぞれにそれぞれの理由があるもので。
まっことやむごとなき理由があるもので。

一方的な加害者なんぞ居りはせず、
一方的な被害者なんぞも居りはせず、
ただただそこには別れだけが、別れだけがあるばかりで。

どうのこうのと喚いてみても、それはどうしようもないのです。
嗚呼、本当にもうどうしようもないのです。


だからこそ哀しいのです。
だからこそやるせないのです。


なればと、人と深く関わることを避けれども、
なればと、誰に恋することをやめれども、

人を希う心が邪魔をするのです。
そんな謀を嘲笑うかのごとく、人を希う心が邪魔をするのです。

そうして独りを知れば知るほどに、誰かを希ってしまうのです。


けれども、さりとて、しかれども、そうして独りを知るが故に、
誰かを沁沁と、沁沁と強く希えるのでしょうか。


私はまっことどうしようもない輩です。
嗚呼、本当にどうしようもない輩です。


それでも前を向いて歩くより、
歩くより他に、もうどうしようもないのですから。



厨二病罹患者が戯言の様に好んで使うであろうワードの一つ 『ゲシュタルト崩壊』。
聞きかじった程度であれば多くが耳にした事のある言葉であろう。
が、いったいそれが本質的にどの様な事を指し示すのかは存外に知られていない。

ただ漠然と、同じ文字を注視し続けているとそれがなんという文字か認知できなくなる現象
ぐらいにしか認識されていないのではないだろうか。

そも『ゲシュタルト崩壊』とは、いったい何が崩壊しているのであろう。

この日常生活に於いて聞き慣れない何やら甘ったる気なコンフェクショナリー感漂う
ゲシュタルトなる3時のおやつの粉砕感を表現している事でないのは想像に難くない。

人は事物を認識するにあたり、微小な断片を捉えて認知しているにあらず、
それらの集合をして事物を把握し、その全体性に総和以上の意味を付加する。
故に細部の一部が失われようと、それがそれであるという認識は保全される。

この全体性をもった、とあるまとまった構造を以てゲシュタルトと謂うのであるが、
知覚全般に於いてゲシュタルトが崩壊すると全体性が失われ、
ミクロに注力される結果その事物を失認してしまう。

このゲシュタルトは僕らが事物を把握するに、非常に大きな役割を果たしている。
おそらくは人工知能なるものが未だ人間の認知能力に遠く及ばないのは
AI完全領域にあるパターン認識の不完全さからくるものであり、
ゲシュタルト概念との関連性も非常に大きく、
如何に人がマクロで事物を把握しているかの証明とも言い得よう。


では一体ゲシュタルト崩壊が引き起こすこの認識力の低下に、どのような意味があるのだろうか?


時に人の脳は僕らに嘘をつく。
脳は非常に様々な局面に於いて広範囲に渡り、常になんらかの形で僕らを欺く。

それはゲシュタルトの所為に寄るところも少なくはないのであろう。
ゲシュタルトはマクロをしてその意味を為すものであり、些末なミクロの変化に大きな意味はなく、
常にミクロはゲシュタルトにとってより都合よく補完されるものであるのだから。

ましてや人は一度ゲシュタルトを構成すると、
ゲシュタルトに矛盾が生じないようにミクロを変容させ得る。

つまりは常にパラダイム化する危険性を孕むと言う事か。

ならばいっそゲシュタルトの崩壊した世界にと思うも、おそらくそれは生も死もなく
自我さえも存在し得ない、人にとってのエントロピーの極み。
人はどこまでいってもゲシュタルトを生成せざるを得ない哀しい性に包まれている。


ではパラダイム化されたゲシュタルトの呪縛からこの身を解き放つモノとはなにか。
それこそがゲシュタルト崩壊の持つ大きな意味なのではないだろうか。

人が人である限りゲシュタルトを生成し続けねばならない生き物だとするのであらば
崩壊したゲシュタルトは再構築されねばならぬものであり、
この破壊と再生を以て人は主観を超越したより客観的なゲシュタルトへと
パラダイムシフトを誘引し得るのではないだろうか。
ま、まったく見当違いの明後日の方向へ再構築される危険性もあるのだけれど。

っとそんな当たり前な事を訥々と。


はてさてそんなゲシュタルトではあるのだけれど、これをゲシュタルト療法的に
ゲシュタルトを外界へ向けてではなく自分の内界に向けて構成してみよう。

例えば自分の抱える諸問題をひとつのゲシュタルトと捉えてみる。
ゲシュタルト自身は個々の構成部分の総和であり、
また総和以上の意味が付加されたものであるとされる。

概ねゲシュタルトを構成する個々の部分はとてもシンプルなもので。

それは人体に置き換えてみても、ごくごく単純な働きしかしていないであろう
個々の細胞の塊が各臓器をつくりあげ、骨となり、血と成って身体をめぐり、
生物としての意味以上の「人」としての意味を付加しているを見るも、明らかなように。

然れば、自分にとってとても複雑で難しそうな問題(ゲシュタルト)は
とてもシンプルな個々の問題の総和にそれ以上の何かの意味が付加されたものと言え、
それぞれを鑑みるに実はそれほど難しい問題ではなさそうに思える。

話を難しくしているのはその複雑に絡み合った個々のシンプルな問題の絡み具合によって、
それらの総和であるゲシュタルトに付加された難解な意味づけにあるのだろう。

繰り返し述べる、ゲシュタルトを構成する個々の部分は大体に於いてとてもシンプルだ。
僕らは僕らがつくりだしたゲシュタルトによって、
それがとてもとても難しい問題であるかのようにその質を変容させている。


よろしい、ならばゲシュタルトを崩壊させようじゃないか。

もつれた問題の結び目をほどき、より柔軟で、よりわかりやすく
より対処しやすいゲシュタルトに結びなおそうじゃないか。

なれど、ゲシュタルト崩壊なるものの発生要因がそも解決されておらず、
確と人為的に発生させる事が困難を極める今、
ましてやゲシュタルトの再構成に於いて、確実にパラダイムシフトが為される確証もなく、
下手をすれば更に問題をこじれさせる恐れもあるこの現象に何が期待できるのか。


よろしい、ならば擬似的にゲシュタルトを崩壊させようじゃないか。

問題を徹底的に細分化し、その一つ一つを改めて切り分け眺め、
如何にその問題がシンプルなもので埋め尽くされているか観覧しようじゃないか。
その上で何が一番重要であるのかを徹底的に洗い出そうじゃないか。
そうすることできっと今まで見えなかった何かが見えてくるだろう。

そうすることできっときっとその問題の本質が明らかにされてくるだろう。

「森を見て木を見ず」

僕たちは一度形成したゲシュタルトを疑うこともなく盲目的に信じる。
なぜならばそれはとてもとても便宜なものであるのだから。

しかれどそれは「森」と名付けられたとても便宜的なだけのものにしかすぎない。
だから躓いた時には今一度問題を掘り起こし、
「木」を見てその問題の本質がどこにあるのかを見極めよう。

然すればいずれ山は山となり、川は川となり得るだろう。


さぁさぁ皆様、焼きすぎてパラダイム化したそのカリッカリッなゲシュタルトを
意思の力という出刃包丁で粉砕し、おいしく盛りつけませうか。

いただきます!!!