今では当たり前かのように使われる「恋に落ちる」という言葉。
本来日本で使われてきた言いまわしではなく、西洋文化の流入によって
ごく普通に日本語になってしまった言葉ではあるのだけれど。

きちんと調べたわけでもないのだが、恋は抗おうとしつつも
強力な重力が一瞬にしてかかってしまったかのような錯覚を
うけるほどに惹きつけられてしまうものだからであろうか。
やはり恋は昇るというよりも、惹きつけられるものであるが故に
Fallin'という言葉がよく似合うものである。

異性を落とすという言葉もここからの転用ではあるのだが、
口説き落とすという言葉は存外不当な扱いを受けているように感じる。
この言葉から連想されるものが、恋愛テクニックに
長けているかのような印象を受けるからであろうか。
常日頃から訓練しているからこそ長けるという理論なのであろう。

つまりは遊んでいるという事か。

しかし、僕は口説きのテクニックに長ける事や異性の扱いに
慣れていることがそれほど悪いことに直結するとは思わない。
テクニックに溺れてしまっては本末転倒ではあるのだけれど。

誰しも自分の好まざる相手と付き合いたいわけではない。
であるならば、自分の恋する相手に振り向いてもらわないと
何も始まらないのである。
消極的に自分を好んでくれる相手とだけと範囲を狭めていると、
納得できる相手なぞそうそう簡単に出逢えるわけなどないのである。
自分の容姿に自信があり、口説かなくても自分を好んでくれる異性が
たくさん存在するわけでもないのならば。

容姿に自信もない、お金も地位も名誉もない、
なのに自分には高嶺の花を好きになってしまった。

だったらそれはもうテクニックを身につけ、
相手を惹きつけ恋に落とす他ないのである。

しかしテクニックテクニックとはいうものの、
すべての異性に通用する方法なぞ存在しえるものにもあらず、
そのテクニックのすべてに習熟することもまたかなわず。
ならばこそ、自分の得意な方法を模索すべきであり、
それに特化してしまう事が最良の方法なのではないだろうか。

駆け引きなんて嫌いならば嫌いでもかまわない。
駆け引きしないこともまた、ストレートな言葉が胸に響く人にとっては
これ以上ないテクニックになりえるのだから。

しかして己の容姿に自信もなく、
金が、地位が、名誉が、ないにもかかわらず
それでもどうしても高嶺の花を惹きつけたいと言うのならば、
羨望する異性が好みそうなテクニックを研究すれば良い。
自分の得意とする方法を突き詰めてみれば良い。
そして実践してみれば良い。

自ら行動しない限りは、何も産まれてはこないものなのだから。

そして失敗の中からより高度なテクニックを身につけて、
次こそは意中の異性を口説き落とせば良い。

口説きのテクニックが即、=悪いことではない。
テクニックとは不特定多数の異性を
惹きつけるためだけに存在するわけでなく、
自分にとって必要な人を惹きつける術でもあるのだから。

僕はそう考える。

一目惚れに理由も理屈も何もいらない。

其の存在の全てを好きである事が然もありなんと、
ただ其処に好きがあるのみばかりで。

理由も理屈も御託もへったくれもないわけだから、
他人様の目に映るは何を血迷ったかと
愚かしくも恥ずかしい痴態なわけで。

でもそれで良いじゃないか。

例えば其れは容姿なのかもしれない、
声なのかもしれない、
スタイルなのかもしれない、
メールでの何気ない一文なのかもしれない。

其の人の何処にどう魅力を感じたかなんて
どうだっていいじゃないか。
それが本物かどうかだなんてどうでもいいじゃないか。
他人が何と言おうといいじゃないか。

そこにあるのは紛れもなく唯その人が好きという事実ばかり。



そう大事なのはたった一言

「貴方が好きです」
多くの人が理解しながらも、
しかし絶対という言葉に振り回されるのが現実。

何が正解で何が間違いかも、すべてそれは非常に曖昧で
ありとあらゆるものは混沌として存在している。

すべては曖昧であるがゆえに、曖昧であることに恐怖し
人はすぐにそこに規範を求めたがる。
いや求めたがるというよりも、そこになにがしらかの
ゆるぎない規範を設けないと生活しにくいのもまた現実。

しかし絶対的に受動的にうけとるしかないと思われる時間でさえ
それは絶対ではなく、相対性で論じられる。
そして数字の「1」が「1」だけにあらずことも、あまりに有名。

物事は追求していくと、必ず絶対というものの不確かさに突き当たる。

物事は、何が正解で何が間違いで、何がよくて何が悪いか、
すべてはその時の状況や定義で変化していくものでもあるし
また見る角度によっても大きく異なるものでもある。

だからこそ、自分の主観だけで物事を絶対的に評価したくないものだ。
おこった事象を悲観することもしたくないものだ。

物事の、自らの行動の、他人の行動の
良否を問う事も確かに必要であろう。
ただそれに振り回される事は避けたい。
現実は現実でしかありえず、その事象の優劣・正誤でさえ、
いかようにも変化していくものであるのだから。

悲観すべき現実などというものはないに等しいのである。
そう自分への戒めとして心にとどめて置きたい。

絶対と呼べるものはどこにもないのだから。