つまるところ、SEXってなんなのでしょうね?

人によってあまりにその思想も違えばスタイルも違い
定義することが非常に難しい問題ではあるのだけれど。

快楽?スキンシップ?生殖?

まぁほんとにぱっと思いつくだけでも
様々な要因を内包しているもので。

SEXを快楽とし不特定多数と数をこなし、
それに満足を覚える方もいるであろう。
むろんそうなるとSEX自身が快楽というよりは、
なんらかの形での精神的充足感の方が
強くなるのであろうか。

人それぞれではあるのだけれど、
実際の所SEXってそれ自身の快楽なんてものは
結局それほどでもないような気がします。

やはり男性も人であって、かなりの部分を
メンタルな部分で占められているわけで、
正直なところ自分自身だけの事と
一応の限定はするのだけれど、
SEXそれ自身よりも自慰行為の方が遥かに
快楽性が強いように感じます。

赤裸々に、有態に述べれば初体験の時なぞは、
ソレ以前のソレを経験することで
自分の何かが変わるっといった
愚かしくも浅はかな意識は消え去り、
行為終了後には特別な儀式でもなんでもなく、
どこか呆気なく何も変わってない自分に
呆然としたもので。


「こんなもんなんだ。」


人の意識は自分が考える以上に、
遥かに身体に影響を及ぼす。
快楽もまた肉体的接触から誘発されるものよりも
精神的接触からもたらされるものの方が大きい。

当然、一般的に誰とでも寝れると
言われる男にとっても
好意を抱いていない女性と、抱いている女性とでは
確実に快楽の度合いは変化する。
女性と違い、射精で一定の快楽は
約束されているとしてもだ。

では何の為にSEXを求めるのでしょうね。

SEXを追い求め、いわゆる「セフレ」
などという関係を持つ方もいるでしょう。
しかしそれとても、完全なる肉体的接触だけを
目的とした行為などとも割り切れない。
そのほとんどの場合、
どちらかが恋愛感情を有しているか、
もしくは心の隙間を埋める目的なのか。

仮にお互いにソレのみを求めているとするならば、
それはもう人の身体を借りた
ただの自慰行為にしかすぎず、
その行為にいったいどれほどの意味が
あるというのだろうか。

自慰行為という一種の排泄行為を繰り返すのに、
相手の身体を道具のように扱う事よりも、
自分で済ませたほうが、
精神的充足感以外快楽は得やすい。

ならばその精神的充足感とはなんなのでしょうね。

相手を征服したという満足感?
他人との比較における優越感?
孤独感からの脱却?
相手との一体感による悦楽?

それは人によって千差万別、様々であるのだろうけれど。


しかし今一度考えてみる、SEXは娯楽であるとともに
生殖行為でもあるわけで。
いあむしろ、生殖行為であって娯楽でもあると言った方が、
より正確なのであろうか。

そこにはたとえ避妊という手段があるにしても、
100%の避妊などというものは存在せず、
少なからず望まない妊娠といった危険性を秘める。

仮にそれで妊娠ということになりでもすれば、
堕胎という方法もなくはないのだけれど、
己の勝手なエゴだけで安直に命の灯火を消す事は
もう罪と言い得よう。

人は期せずして
過ちを犯し生きていくものではあるのだけれど。

だけどもそれを容認し、
仕方ないで済ませていくわけにもいかない。
罪は罪として、一生背負わなければいけない。
それらちっぽけな充足感がためにSEXすることは
大きな危険性を秘める。


先にも述べた通り、肉体的快楽としての側面は
自慰行為の方が遥かに高い。
大罪の危険性を秘め一生を良心の呵責に
さいなまされる事と引き換えに得る
わずかな充足感のためにする性行為には
一体何の意味があるのだろう?


つまるところSEXとは?という問いには、
快楽と生殖のパラドックスであると答えるしかないのかなぁ。

なんとはなしに、レイトショーを探して見てきたのだけど。
何の予備知識もないまま、なんとなくタイトルを
耳にするからっという理由だけで。
が、予想を裏切って遥かに面白い映画であったことは述べておく。

後から原作が純文学という事を知り、なるほどっとは思った。
まぁ純文学たるものが、なにをして
純文学たりえるかもまた難しい話ではあるのだけれど。

大衆に媚びず、表現を隠さず清濁併せ呑み、
その人間の内面を鋭く抉っていくあたりは
純文学のソレが色濃くでているのではないかと思う。


まぁこの作品が何を問いかけて来ようとしているのかは、
観るものそれぞれに違うのであろうけれども、
少なくとも私的に感じられた事といえば、

「ほんとうの悪人っていったい誰なの?」


人はそれぞれがそれぞれに思惑を秘め、
己の価値観に従い生きているのではあるのだけど、
単純な絶対正義なぞこの世にあるはずもなく、
常に相対でしかない世の理を現代的に出会い系といった
ツールを絡めて表現しようとした作品なのであろう。

正義などという言葉は、往々にして相対であるべき事をして
唯一絶対であるかの如く振りかざすものであって、
己の正義は他人の正義にあらず、正しいと思う事柄もまた
あっけなくも悪となりえるものであり。

しかしながらにして、
それでも社会はある一定の秩序と規範がなければ
脆くも崩れゆくものなのであろう。
その秩序やら規範に背く者をして
悪人と呼ぶのであれば、まぎれもなく
この主人公は悪人でしかないわけだけれども。


必ずと言って良いほどに人の為す事の裏には、
原因が存在する、理由が存在する。


何気ない日常の何気ないふっとした
ある言動においても、それを為す為の
思惑が存在する事は明白であり、
そこには今まで生きてきた上で積み重ねたきたもの、
事情、理由、様々なものが交錯し
人の言動を導いているものである。

仮に秩序や規範などという単純なものに縛られず、
その心の揺れ動きだとか言動といった物のみを
比べてみた場合、この作品における悪人とは
いったい誰をさして悪人と呼べば良いのであろうか?

各々の事情、理由、背景などから導かれる思惑をして
誰が善人と言いえようか?

人は謀らずも誰かを傷つけ生きているものである。
人とはそれだけエゴに満ちた存在なのである。

ただ単に、一番不器用であった男が
たまたま自己を制御できず、秩序をやぶり、
規範を逸脱してしまっただけにすぎないのかもしれない。
そういった意味では不器用とは罪なのであろう。


映画本編は淡々と、殺人を犯した
とある不器用な男と出会い系で知り合った
ある愛に飢えた孤独な女との逃避行を廻り、
それを囲むそれぞれがそれぞれの心情描写に
終始するのであるけれど、だからこそ深くもあり、
人の心の醜悪さを垣間見る不快なものとなっている。


作品最後のラストシーン、
この不器用男はさらにこの逃避行を共にした
愛に飢えた孤独な女をその手にかけようと
するのではあるけれど、
その不器用男の最後のラストメッセージが
なんなのであるのかは観るものに委ねられて終わる。

人が何かを為す為には、
そこに何がしらかの思惑が存在する。
この不器用男のラストメッセージを、
思惑を、貴方はどう感じるのであろうか。
完璧なぞ求める物に非ず。

すべてのものに完璧なものなぞどこにも存在し得ない。
完璧なぞというものは、すべて環境ありきのものに過ぎず
環境に対するイレギュラーの元にあっけなく崩壊す。

そんな極々限定された狭い範囲の完璧になぞ
如何程の価値が在るものや?

だからこその矛盾であって脆さであって弱さであって、
ゆらぎの中に煌く一瞬間の調和こそが真なり。

だから人は完璧でなくたっていいんだ。
だから僕は僕であっていいんだ。

だから貴方は、貴方であっていいんだ。