人ってやっぱりみんな笑ってたいのだと思う。
幸せでありたいのだと思う。
満たされたいのだと思う。

でもふっと孤独を感じると、
世の中でさも自分が一番不幸であるかのように感じるもので。

そして同情が欲しくて、共感が欲しくてネガるのだけど、
でも結局人って幸せが欲しいんだなぁ。

傷の舐めあいをする事ももちろん時には重要だけど
でもそれだけじゃちっとも幸せになれない事もみんなわかってて、
楽しいところへ楽しいところへと人は集まって行く。

ネガるだけの人生じゃ、誰もまわりに残らない。

だから孤独を感じるときこそポジティブに。
不幸である時こそ、他人の幸福を願おうよ。

まわりが幸せになれば、必然自分も幸せになるんだから。
ネット恋愛っていったいなんなのだろう?
ふっとそんな事を考えて見る。

今や多くの人がこの仮想世界で恋をすることが
さも当たり前のような感覚で恋愛をしている。

それは人によって状況はさまざまで、
メールや文章といった言葉だけのつながりもあれば、
実際に電話やスカイプなどといったもので
言葉を交わすものまで、千差万別ではあるのだが。

ネット恋愛というものが、
ある一定の市民権を得た事は確かであろう。
またそれと同じく未だ会ったこともない人に
恋をすることに否定的な声も多いのだけれど。


ネットでの出会いとリアルでの出会いの最大の違い、
それは存在の確認と、容姿の確認であることは言うを俟たない。

リアルはすべて存在の確認、容姿の確認からはじまる。
ある意味それが書類選考のようなものであって、
それをパスし、はじめて内面に目を通す面接となることが
ネットでの出会いとのもっとも大きな違いであろうか。

ネットでの出会いは言わばこのプロセスが逆方向に流れていく。
まず内面にアプローチをかける面接ありきで、
この面接にパスしたものが書類選考にかけられるといった所か。


ネットでの出会いを否定する
理由の大きな要因のひとつに
存在そのものの真偽にはじまり、
その人物の発言の真偽が問われる。

仮にだ、仮に今すぐにその真偽の確認ができないといって
すべてを仮想世界の虚偽と片付けてしまい、
心を閉ざしてしまうのはあまりに乱暴ではないだろうか?

確かに、こんな虚偽に満ち溢れた仮想空間ではあるのだけれど
果たして虚偽に満ち溢れているのはネットだけであろうか?

否、そうとも思えない。

リアルであるならば存在の確認はできたとしてもだ、
だからといってその発言のひとつひとつすべてが
信用できるものでもありえない。
虚偽などリアルにも犇いているではないか。
事実、自分の真意を欺き偽る事はリアルにおいてもよくある事で、
いくら綺麗ごとを吐いた所で本音だけでは生きていけない。

その人の容姿を確認したところで、存在を確認したところで
むしろそれに安堵し安心しきってしまうリアルにこそ
大きな罠があるのかもしれない。
何が真で何が偽かなぞ、誰にもわかりえようはずもなく、
そんなものはただの盲目的な思い込みに過ぎない。

であるならば、ネットでの出会いを否定する事由として
残る最大の関心事とは容姿の確認に他ならないのであろう。
普通、人が人を好きになる時に、容姿が大きなファクターである事は
それがすべてではないにしろ明白である。

綺麗ごとを言うつもりはない。

だが容姿だけで判断する人はマレといえばマレである。
誰しも欲張りなもので、容姿だけですべてを判断するのであれば
交際とは美男美女だけに与えられた特権にすぎない。
容姿に恵まれているに越した事がないのは事実であるが、
必ずその後、その人の人となりを確認するのは至極当然であろう。

何も特別な容姿を求めている人が多いわけでもない。
大げさな話、通気性に優れてはいるが
ボロ雑巾のような見かけのカーテンを選ぶ人なぞ、
それほど多くはあるまいっと言ったところか。

つまるところ最終着地なんてネットもリアルもどちらも同じでしかない。
外見、内面、どちらかでも欠けていれば篩いにかけられ、
脱落していくことになんの変わりもない。

であるならば、リアルで出会おうとネットで出会おうと
結局の所そこにそんな大きな違いなぞ
存在はしないのではないだろうか。
ただ相手を知っていくプロセスが違うだけなのだから。

相手を好きになるプロセスっていったい誰が決めたのだろう?
順序ってそんなに大事なものなんだろうか?

その人のどこに好意をもつかなぞ、
それほどたいした問題ではない。
顔立ちを好きになる人も居れば、
スタイルを好きになる人も居るかもしれない。
はたまた何気ない一言であったり、気遣いであったり、声であったり。
人を好きになるきっかけってほんの些細な事だと思うんだ。

人が人としてそこにある限り、例え顔を合わせる事がなくとしてもだ
そこには幾ばくかの真が存在し、そして偽が存在し、
それを探って行く事が出会いの第一歩であるならば、
誰が顔を合わせずして人を好きになることを否定できようか。

ならば出会いがリアルであろうと、ネットであろうと
心を頑なに閉ざす必要なぞどこにも存在はしない。
ただ相手を知っていく過程の順序が違うにすぎない。

だから、その心の揺れ動きを大事にすればいいと思う。


ネットでの出会いなんて、
ただの恋のきっかけの一つにしか過ぎない。

僕はそう思う。
信頼だとか信用なんてものは、ある種対人関係構築の為の
コミュニケーションスキルにしか非ず。

円滑に人間関係を築くための暫定的な措置と言い得よう。

それでも敢えて信用というものがあるとするのならば
それはもう継続にしか在らず。

一瞬間の美辞麗句など言うが易し。

其処に連綿たり得る『愛』在らんことを以って
継続が『愛』そのものとするのならば
まさに『愛』なくして『信用』なんてものは存在し得ない。


然るに信用とは久遠であり、その果ては無窮に等しく、
死の間際になりてはじめて本当の信用であったと確信するもの也。

まさしく其れは結果でしか在り得ず、
人に信用を求めるは愚策でしか在り得ない。