もう今現在ではまだ制限された環境下でしかないのだけれど
AIというものは、囲碁までも人智を超え凌駕するまでとなっている。

将棋でさえままならず、囲碁で人間に勝つなんて
どれぐらい先なんだっと言われていたにも関わらず
9x9盤とはいえ、まさかこんなにも早く人間に勝利するなどと。

人間の脳は複雑なメカニズムによってなりたっているのだけれど、
各々ひとつひとつの細胞が担っている仕事は、
実際問題そんなに複雑なわけでもなく、
それぞれが各々に単純な役割に特化し、それを並列的に処理し、
組み合わせることによってより高度な処理を実現していく。

その構造をプログラミングに応用しているわけだ。

まぁこの手の話は、もうさんざん出尽くしているので
今更さほど珍しい話でもないのだけど。
だけど、それがこんなにも早く進化し続けることに脅威を覚える。

単純な指示を与えるだけで、コンピューターがありとあらゆる
可能性をシミューレートしながら適者生存を繰り返し、
またたくまに自分で何が最善であるかを判断しながら
進化していくさまは実に感慨深い。

人がコンピューターにすべてを覚えさせるわけではなく
コンピューターが自分で意思をもっているかのごとく
自分で進化していくのである。

この速度でAIが人間を模倣し進化を繰り返していくならば、
もうそんなに遠くない将来、人を越える存在が出現しても
なんらおかしくはないだろう。

もうそうなると、何が意思で何が心で何が生物なのかが
混沌としてくることになりかねない。

従来からもさまざまな哲学者によって、
この問題を定義する試みがなされてはいるのだけれど、
いまだかつてコレといった結論に達してないのが現状。
このあたりはジョンサールだとか中国語の部屋なんかを
検索して調べてみるとおもしろいかもしれない。

まぁ人間の意識のあり方の答えが明確にされていないのだから
AIの意識のあり方が明確に定義できようはずもないのだけれど。

であるならば、なおのことAIの意思のありようが
混沌としてしまうわけで、その衝撃は想像もつかない。

かように、人間のメカニズムを模倣することで
爆発的に高度な処理が実現化されるということは
実に人のメカニズムがとても高度な産物であるかが窺えるであろう。

そしてそのメカニズムが、より人間の利用している
物質以上の物質に置き換えられたとき、
人はこの先どうなっていくのだろうか。

AIが人を超えた知性体となるこれまでの絵空事は、
もはや絵空事ではありえず、
もうすぐそこまでせまっているのかもしれない

泣けるのかと思いきや、これがまったく泣けないと言うか、
この映画の何をみて何を感じて泣ける要素があるのかさっぱり
理解できなかったわけだけど。


ご都合主義なのは良いとしても、
最後をのぞけばリアルといえばやたらリアルすぎる展開に閉口。

そこにあるのは、サラっと流されて目立たないだけで
人のもつエゴが描かれた、ドロドロとした人間模様。


物語を細かく分解し、活目すべきプロットとなりえるは
・好きだけど別れなければいけない時がある
ぐらいなものであろうか。


まぁ結局はそれも最後の出鱈目なご都合主義によって
悲哀で締めくくるべきであるところを
無理にハッピーエンドにしてしまった事で
更にチープ感がいや増してしまったわけだけど。


若い頃は、好きだけど別れなければいけないだなんて
そんな悲しくも不条理に満ち溢れた出来事なぞ、
ありえようはずもないと考えていたもので。

恋愛と言うものが至上のものであるかのような錯覚の為せる業といった所か。

人は愛だ恋だのだけで生きていけるほど、清くも美しくもなく
所詮恋愛などというものも、生きていればこそであるのだろう。

寂しくもそれが現実。


この映画の主人公達も、そうした葛藤の中
現実と言う壁に阻まれ恋を挫折することになるのだけれど。


人は思いのほか、自分の一番好きな相手と結ばれる事は存外に難しい。
これだけたくさんの人が居る中で、果てる事なき人間の欲望というものを
その身に抱き、お互いがお互いに自分の最愛なる人と結ばれる事、
これはもう奇跡に近い。

もし仮にそのような恋愛をしていると自負するのであれば、
その幸せを今以上に噛みしめなければいけないのであろう。

心の奥底に大事な人を想いながら誰かと交際する事は
何も珍しい事でもなく、そこらに転がっているあまりに陳腐な出来事。


この映画に純愛なんてものは存在しない。
そこにあるのは、エゴにまみれた只の恋愛劇。

純愛なんてものを信じているわけでもないのだけれど、
もしも、もしもこんな恋愛をして純愛だなどと掲げるのであれば
純愛とはなんとおぞましくも醜いものであろうか。


それだけ恋愛って奴は綺麗ごとだけではすませられないってところか。
最後に漏れでる感想は「へぇー、ふーん、あっそう良かったねー」



まぁそれはそうと、なんだかんだ言いつつ、
「ずっと貴方が好きでした」って想いは胸にささるものなのかねぇ









--------------------------------------------------------------------
総評

ガッキー可愛いよ、ガッキー蕩れ!
まぁ、いわゆるツンデレ。

今更説明の必要なんかあるの?ってぐらいには超メジャーな
単語となってしまったのだけど。

こっから派生した単語があまりに多すぎて、しかもそれらの単語も
あまりに抽象的すぎることもあって、ツンデレでさえも非常に曖昧な
単語となってしまった事は今更否定できないのだけど。

常に言葉なんてものは意味が変化していくものであって
本来がどういった意味であったかなぞ、誰にとってもよい話で
この期に及んで元々の意味を主張するのは無粋というもの、
っというかそんなものは一部のヲタにまかせておくにして。

まぁツンデレにどんな解釈が存在するにせよ、
ツンデレの本質というものが
ツン→デレへの変化であることは言うを俟たない。
それが時系列によるものであるのか、
状況によるものであるのか
どちらにせよ、そこにデレが存在しデレへの移行が
ツンデレの醍醐味と言うものであろうか。

なんにせよ、極から極への急激な変化あってこその
ツンデレというわけだ。
これもまたある種のギャップ効果と言って
そう差し支えないのかもしれない。

とにかく、思う以上にツンデレ派というものは存在するわけなのだが、
なぜに人はツンデレに走るのであろうか。

よくギャップのある人はモテルなどといった言葉を耳にするが
とりわけこのツンデレなるもの、構造としては非常に素晴らしい。

以前にも書いた事ではあるが、快楽のメカニズムなるものが
緊張からの解放に他ならないとするのであれば、まさにツンデレとは
快楽そのものと言い換えてなんら問題なぞないと言い得よう。

これは人が人である以上、
人が感じるであろう快楽が緊張からの解放である以上、
ツンデレに萌えるは必然。
抗いがたい快楽の誘惑といった所か。

これが広義における状況的変化を指し示すツンデレとも
なろうものなら、ツンという緊張状態からデレという
解放状態への変化を間断なく繰り返される事となり、
緊張から解放を与えてくれるその人こそ「ツンデレちゃん」であって、
「ツンデレちゃん」の姿をみるだけで
デレを想像し快楽を感じてしまう事にもなろう。
もはやこうなるとパブロフの犬よろしく、
自然条件付けによる洗脳と言って
まったく問題ないのではないであろうか。


そう、ツンデレとはまさに洗脳に他ならない。


このツンデレなるものをリアルに自由自在に応用できるとするならば。
間違いなく極上の恋愛テクニックと言えるのであろう。

が、しかしツンデレをリアルにおこなうは非常に難しい。
まずデレがデレであるためには、
対象にデレをデレとして認識させなければならない。
デレを感じさせない事にはツンはツンにしかあらず、それは只のツンドラ。

ムチを振るう事なぞ誰にでもできる。
ただ容赦なくうちつければいいだけなのだから。
問題はいかにしていつのタイミングでいかほどのアメを対象に与えるか。
アメの与え方が重要且つ基本なのであろう。

ともすればツンに目が行きがちなツンデレではあるのだけれど。
いくらツンを研究するよりも、
デレにこそ其の真骨頂を見出さねばならない。
意図的にそして最も効果的に
デレをアピールする事こそが最重要課題である。
其の為のツンなのだから。


デレを征するもの恋愛を征すである。



ってごちゃごちゃ書いてきたわけだけど、結局何が言いたいかって

Dareka orewo tsundere de kotenpan ni sitekureyo!