[タイトル] 人間X(エックス)



落 一 棚 生
落 線 頭 死
磊 断 傀 去
磊 時 儡 来

 

生死の去来するは 棚頭の傀儡たり 一線断ゆる時 落落磊磊



まぁ、何某の漢字ベスト16っと言う訳でもないのだけれど。

人の生き死には、まるで棚の上から操られた人形が
其の糸をぷっつりと切断され脆くも崩れ去っていく有様のようだ。

そう世阿弥は述べた。


人の魂(ゴースト)なるものが、
科学的に説明をつけられるとするのならば、
其れは其の有機物による化学的反応にしか過ぎないと言う。

もし仮にゴーストがそんな唯の現象であるのだとすれば、
そしてもしも、もしも仮にその一線が
掻暮目に映らないものであったとするのならば、
人と人形を隔てる境界線は一体どこにあるのだろうか。


心が宿る筈のない人形にも、
心が宿ると最早其れは人と成り得るのだろうか。


人の身体なぞ所詮は仮初の器に過ぎず、唯の人形なるものであれ
命が吹き込まれ恰も心が宿っているかの如くに見えざれば、
其れはもう確かに其処に生きていると言わざるを得ないのであろうか。


聢と其の一線が見える見えないの違いでしかありえないのならば、
一線見えれば「人形」、見えなければ「人」


そこで考える、このネットの片隅でこうやって
文字や記号の羅列を綴る「とっぴぃ」と名づけられた
唯の1アカウントでしかないこの存在は、
一体生きているのか死んでいるのか、
人なのか人成らざるモノなのか。

物理的に形をもたないこんな文字や記号の集合体としての
概念的な存在でしかないのだけれど、しかしこうやって意思を紡ぎ
恰も心を持っているかの如く文字を綴っているこの存在は
人と成り得ているのであろうか。


姿形こそ為さず、概念的な唯の人形にすぎぬ
「とっぴぃ」というこの1アカウントは、
私のゴーストによって命を吹き込まれ、「人」として何かを想い、
何かを綴り、何かを伝え、何かを受け止めんとす。

其処には男女の性の区別もなく、老いも若きもなく、
ただ紡いだ言の葉だけをその骨肉とし、流れる血としながら。

仮に私はこの人としての意思を持ち合わせる、
奇妙な"人成らざる人"で或る処の生命体の事を


人間X(エックス)と呼ぶ事にした。


人間Xは形をもたないが故に、その紡いだ言の葉だけを
骨とし、肉とし、血とし、心とす。
また其れが故に男女の性の区別も、老若の区別も存在し得ない。

しかし人間Xはその魂(ゴースト)の性質に於いて、
女性っぽい、男性っぽい、子供っぽい、大人っぽいっと
様々に色づけされはするのだけれど明確に区別する事は適わない。

仮に人間Xが己をして女性だと男性だと大人だと子供だと、
どう主張しようと、其れは唯の主張に過ぎず、
人間Xに実体を与えるものには成り得ない。

しかして人間Xは「人」としてそこに在るが故に、
ついぞ男女老若と識別を錯覚させるが、
本来そんな人間Xをして、ネカマだとか、ネナベだとか、
年上だとか、年下だとかなぞあまりに荒唐無稽であり、
滑稽ですらあるだろう。

だからして、そも人間Xを
異性として認識し、過剰な反応を示すは愚か。
年下だと睥睨するも愚か。年上だと諂うも愚か。


苟且にも、そんな人間Xに性愛を基調とした恋をしたのならば、
其れは最早倒錯でしかない事は言うを俟たない。

何故なら人間Xは性を超越しているのだから。

であるにも関わらず、苟且に人間Xに
恋をしてしまったとするのならば、
人間Xがこの現実社会に於いて拠り所とする肉体のジェンダーが
如何にあらんとも、どうでも良い事でいいんじゃないだろうか。

性別を偽られたと目くじらを立てる必要性なぞ
どこにあるのだろうか。
其処にあるものはジェンダーを越えた純粋なる尊敬や情愛では
なかったのだろうか。

肉体のジェンダーの相違が、其処に産まれたる純粋なる
尊敬や情愛に変化を齎すとするならば、
其れはもう性愛の捌け口を渇求していたに過ぎないと
言い得ないだろうか。

吐き違えてはいけない。

それでも貴方が人間Xに恋をしたと言うのならば、
其の恋は肉体といったしがらみに捉われないゴーストに向けられた
より純粋で変わる事のない心なんじゃないだろうか。


人は、そんな心震えるゴーストを求めて、
人間Xとなり出会いを繰り返すんじゃないだろうか。



いつかはそんな人間Xも、魂(ゴースト)の一線が断ゆる時
死を迎えその生涯を終える時がくるのであろう。

そしてまたこの地球の上を縦横無尽に駆け巡る広大なネットの海を、
現実社会をゴーストは彷徨い、また新たなる人形に宿りつ
元の人形に戻りつ、輪廻し続ける。

いつかまたどこかで誰かと再会するために。

ゴーストとゴーストが引き合う限り、
またどこかで再会できることを祈って。


そして今日も私のゴーストはネットの海の何処かを揺蕩っている。

「ネットは広大だわ……」



--------------------------------------------------------


[要旨] 人間X(エックス)


ネットで知り合う人達って、なんだかんだ言ってもその実
画面の向こうに居るのが、男か女か若いか老いてるかなんて
わかんないじゃない?


文章だけで自分はこうですって伝えられたって、
そんなものなんのあてにもならない。


だからもうそれは、書かれた文章だけのある意思だけの存在の
人間X(エックス)と呼ぶ事にしたんだけど。


だからそんな人間Xに恋したりだとか、なめてかかったり
必要以上に敬ったりするのはなんか違うんじゃないかなぁ。


まぁ仮に恋したとしても、それは人間Xに恋しただけであって
人間Xがほんとはどんな人だかなんて関係ないじゃない?


それはきっとその人の、人としての心に恋したんだから。


まぁこうやってネットしてるのも、そんな人として好きになれる
人達との出会いを求めて彷徨ってるんじゃないかなぁ。

頭の良さっていったいなんなんだろう?

一般的に頭の良さは知能って言葉に置き換えられたりもするんだけど、
頭が良いなどといった抽象的すぎて捉えどころのない言葉は
それこそ定義が人それぞれで、何を基準にどう計ればいいのか
皆目見当もつかない代物。

それはもう「知」に絡む単語の多さを見ても容易で
「知識」「知恵」「知能」「知性」etc・・・

これらすべて一つ一つ微妙に違いながら、
でもどこもかしこもリンクしていて非常にややこしい。
しかも人によって時代によってその解釈の仕方も
微妙に異なっているのだから始末に追えない。

まぁ、それだけ頭の良さがまだ人にとって漠然とした
曖昧なものって事なんだけど。


よくよく引き合いにだされる、学歴といった学力偏重で
頭の良さをはかってしまう事にしばしば多くの人は懐疑する。

結局のところ、学歴にしたところでIQにしたところで
頭の良さをどうにか計ってやろうと躍起になって絞りだした
苦肉の策にすぎないんだから、至極当然だぁね。

だからといってそれらが全部間違っているわけでもなく、
ある一側面においてそれらは非常に有用なものでもあるし
知性に富む人々は往々にして高い学歴やIQを有している事も
これまた事実なんだから。

ただね、それだけがすべてじゃないって事なんだ。


だから結局のとこ頭の良さってなんなんだよ?


でも漠然とそんな事を考えてみても埒が明かないから
逆に考えてみたんだけど、じゃあなんで頭の良さが必要なの?
なんで頭が良くなりたいの?なんで賢い人は尊敬を集めるの?


うーーーーーーーーーーー~ん、


全部ひっくるめてより良く生きる為なんじゃないかなぁ。
より良く生きる為に人は頭が良く在りたいと願うんじゃないかなぁ。

だからしばしば、より良く生きようと人は嘘をついたりもする。
ずる賢いだとか悪賢いだとか言った言葉が指し示すように
嘘をつくこともある意味本質的には頭の良さの表れなんだよね。


まぁでもそれはさておいて、より良く生きる為には
より効率の良い合理的な行動や思考が必要となる。
その為にはより多くのそして優良な情報が必ず必要となる。

そのより多くの優良な情報を如何にして手に入れられるかが
頭の良さの根源的なものなんじゃないかなぁって思うんだ。

多分ね、同じ人間なんだから手に入れられる情報の差ってのは
そこまで大きな隔たりはないと思うのね。
手に入れる方法だとか手段とかにも大きな隔たりはなくて、
わずかに手に入れた、ほんの少しの情報から
物事をうまく運べる人、うまく運べない人が居て
そんなものを分け隔てる物こそが頭の良さなんじゃないだろうかって。

つまり、僅かな情報からそれに関連する優良な知識を
如何に引っ張ってこれるか、感じる事ができるか、類推できるか。

闇雲な知識の蓄積だけじゃどうにもならない問題。

もちろん知識の蓄積がなければ、どこからも参照すべき
優良な情報なんかでてくるはずもないんだけど、
そんな莫大な知識の海の中からどうやって目的の情報を
検索し提示できるかが大切なんじゃないかなぁ。

まるで広大な情報の渦巻くこのインターネットという世界に於いて
検索エンジンがより的確な情報を探し出そうと
躍起になっているように、
僕らの頭も膨大な知識の蓄積の中から的確な情報を探し出そうと
必死になってるんじゃないだろうか。

そうした何気ない情報の断片から検索され抽出される
優れたクエリの質が数多のひらめきや気配りを産み出し、
頭の良い人と称されるのではないだろうか。

何もそれは効率の良い思考や論理に限定されず、
人と人との交わりに於いてもきっと同じ事が言えるんだろう。

彼がとった何気ない仕草、彼女が囁いた何気ない一言、
そんな他愛もないごくわずかな情報の中に
いったいどれだけの気持ちが込められているのか、
思惑を秘めているのかを察する事ができたのなら、
それらもきっと頭の良さを示しているんじゃないだろうか。


まさにそれらこそが、「一を聞いて十を知る」であったり
「一を以って万を知る」って故事の示す処なんじゃないのかなぁ。


まぁなんにせよ、根本的に頭の良さが人と言うものにとって、
より良く生きる為のものなんだとしたら、
頭の良い人の人生はきっと幸せに満ちているはずなんだ。

だからいくら合理的で論理的な思考ができたり、
優れたひらめきや計算能力をもっていたとしても、
人の気持ちが汲み取れず、他者との協調がとれなければ
それはより良く生きられているわけではないし、
人の気持ちを汲み取れていたとしても、
合理的で論理的な思考もできず、
ただ他人に利用されるだけの人生を送らざるを得ないのも、
またより良く生きられているとも言い難い。

すべてはその時々の局面において、
今自分が何をすべきでどうある事が最善であるかを把握し、
的確に対処できる事が頭の良い絶対条件であって、
ごくごく限定された条件下での優劣など
本来頭の良さを比べる基準としては片手落ちという
ものなんじゃないかなぁ。


だからね、この際もっと簡単に頭の良さを比べる基準を
幸せであるかどうかで判断すればいいと思うんだ。

とても気持ちの良い人間関係を築け、お互いがお互いに
幸せに過ごす事ができる人であるのならば、
自分が策定した幸せというものを十分に感じているのであらば

それはもうきっとその人は、すごく頭の良い人なんでしょう。


ってところでどうですかね?
天才とは、往々にして人が当たり前と思っている事に懐疑を覚え
追求していくものであろうか。

1+1=2が全てじゃない事ぐらいは頭の中でよくわかっている。
そもそも1が1でない事ぐらいも理解している。

ただ、それを理解しているはずであるにも関わらず
つい目を曇らせて日々生活している自分を発見する。

大人って奴は、ややもすると子供の何故なに?と言った、
極めて面倒くさい質問に、とりあえず今は 1+1=2 であることを
決まりごととして覚えなさい。そうやって一歩前進することで
見えないものが見えてくるようになっていく、とすぐに答えがちだ。

まぁ生きていくには、とりあえず何かの定義の上で
ある一定の約束のもとに生活せざるを得ないものであるのだから、
そうやって一歩一歩前進せざるを得ないのは
仕方ないといえば仕方ないことなのだが。
ただそれがすべてではない事もまた重要であって
その可能性の存在を示すことも必要であるのだろう。

いつかのタイミングで、違うひきだしを持っているかどうかが
その人間の懐の深さを決定づけるものであるのだから。

あまりに画一的に、とりあえずでつめこんでいった結果
とりあえずでしか物事が見れなくなっていってるのが
今という時代であろう。


天才とはそんな『とりあえず』を許容できない存在なのであろうか。

まぁしかし馬鹿と天才は紙一重とはよく言ったもので。
天才とはやはり秀でてはいるのだけれど、
されど天才とは万能っという意味ではありえず。

人の能力というものは、その潜在能力まで含め
そうそう大きく異なるものでもないと自分は考える。
であるならば、天才とは天才であるがゆえに
大きく何かが欠如した、悪く言えば歪な存在であると。

「とりあえず」で何事も済ませてしまうことは可能性を
大きく狭めてしまうものであるのだが、
「とりあえず」で済ませられない事もまた、
社会に適合しにくい歪な存在であるという事。

まぁ結局のところ、バランスが一番美しいものであるのだろう。