時折ふっと考える、常識ってなんだろう?普通ってなんだろう?


ともすれば、日に何回も耳にする頻出単語ではあるのだけれど、
その使われ方のニュアンスは非常に曖昧である。

まぁ元々の言葉の意味をして、普遍的でも絶対的でもなく
極めて相対的であるべきものなのだけれど、
共に一般的である事をして普遍的なものに為さんと使用される。


詭弁であろうか。


そもこれらの言葉を使用するにあたり、
考慮すべきは何をもって全体と為すかに尽きるのであろう。
それぞれに属しているであろうコミュニティを限定しない限りは、
何を以って全体と為すかを特定する事は適わない。

コミュニティの限定をして始めて一般と言う言葉を定義しうる。

お互いがお互いに違うコミュニティに属しながら、
お互いに一般を語りだせば、そこに衝突がおこるは必然である。


違うパズルピースは組み合わさらない。


大体に於いて、人と人とのコミュニケーションに一番必要なものは
譲歩と妥協にあると言えるであろうが、
まずはお互いにとっての共通認識を確認しておくのが先決であろう。

それには第一に着手すべき最大公約数を求める作業において、
各々に共通するコミュニティを探る事から始めねばならない。

場合によっては「日本人」である事ぐらいでしか
共通項が見出せないのかもしれないが、
ともかく相手との公約数を求めない限り話はすすまない。

そうして導き出された共通するコミュニティ以って
お互いの全体と為し、それを一般としなければ
何が普通で何で常識かなぞ荒唐無稽なものでしかない。

極端な話、同じ日本人という共通項を持つ間柄における常識とは
日本国憲法下における法律や義務教育範囲内での教養でしか
ありえないのかもしれない。

常識を法律で規定し得ないマナーとする向きもあるが、
マナー自身大きくコミュニティに左右されるものであるのだから
それを常識と為すのも難しい。


しかるに、普通や常識といったものが人と人との関係性に
大きく起因するものでありながら、
何故に人は一様に「普通」や「常識」なんて単語を頻繁に
用いるのであろうか。

っと、問題提起するも、それはとても簡単なお話。

結局は、対人コミュニケーションに於いて一番大事なものが
譲歩や妥協に他ならないからである。

譲歩や妥協といったものは、自身の普通や常識と言ったモノを覆し、
異なった価値観を甘受せざるを得ないものでもあり、
自身への負担を強いる事にもなりかねないモノであるのだから。

其れ故に、或る者は人との交わりを疎ましく思い孤独を求め
或る者は自己負担を軽減させる為に相手に負担を強いる。

孤独を求める者はさておき、
己が価値観を相手に甘受させようと企てる輩なんぞは、
自身の負担を軽減させるべく己がコミュニティに帰属させんと
「普通」及び「常識」という言葉を以って主張を正当化し是とす。


まるで正義を掲げ侵略を繰り返す十字軍のように。


まさに「普通」とは、一般性を盾に集団帰属本能を巧みに操り、
外れる事への恐怖を煽りたて同一コミュニティに帰属させんが為に
誘導を行う、もしくは心理的恫喝を以って侵略を企てる言葉であり、
また同一コミュニティに属している事を再確認し、
自身の価値観の正当性を裏づけんとせんが為の言葉なるや。


つまりは、心理的なカケヒキに於けるテクニックの一つ
といったところか。

まぁ非常に使い方の難しい言葉で。
『女神』 明野照葉  光文社

誰もがため息をつくような美貌。
仕事はトップセールスを誇り、恋人はエリート医師…。

“営業部の花”と呼ばれる沙和子に憧れる真澄は、
彼女を観察するようになる。
すると、その秘密主義、完璧主義は、常軌を逸しているように見えた。
転職、転居を繰り返す、沙和子の素顔に隠された奇妙な過去とは?
完璧を目指す女。

その裏側に潜む社会病理を描いた傑作。



----------------------------------------------------------------

基本的に人の闇部にメスをいれるような話が好きなこともあって、
ふっと何気に本屋でコイツを手にとってみた。


この話の根幹部にあるのは紛れもなく、
つい数年前にわかにスポットライトを浴びたリセット症候群。

時折、この話の中でもゲームとの関連性を揶揄するような箇所も
見受けられ、その関連性を明確に言及していないことで、
この作者の中でリセットたるものがどういう位置づけであるのか
少々判別がつきにくいのだが、少なくともリセット症候群たるものが
ゲームのリセットと直結するような安易なものでないことは確かである。

リセットに至るプロセスを書き記したこの話を
よく咀嚼して読むことでも、リセットとはゲームのリセットを
指し示しているのではない事がわかるのではないかと思う。

それが実によくゲームのリセットと類似しているとしてもだ。
いやむしろゲームのリセットと同一のものであるとしてもだ。

マスコミが論うリセット症候群の発祥たるゲームとは
いわば実社会の鏡であり、ゲームとは現実世界を模して
つくられたシミュレートが本来のその姿であるのだから。

鶏が先か卵が先かではないが、ゲームの本質がシミュレートに
あるとするならば、リセット症候群とはゲームがために生まれた
新しい病気でもなんでもなく、
人が本来その性質を内包しているリセット欲求による発露であって、
リセットの本質が人の精神世界と深く結びついている事は明白である。

今現在、国民総病人社会と言われて久しいが
まずそもそもこの言葉からおかしいといわざるを得まい。

結局のところ、研究をすすめるにあたって、
なんらかの仮定や推論が必要となり、俄かに定義されたものであって
決してそんな近年突然姿を現した奇怪な病であるはずがない。

そう、人の精神世界はやっと今その扉を開いたばかりの
ほんの入り口に到達したにすぎない。
昔から人とは病める存在であったはずである。

まぁ話が随分とそれてしまったが、
リセットに至る道筋は人それぞれ多岐にわたるものであるけれども、
この物語におけるリセットへの鍵は完全主義者の悲哀。
これを女性特有のものとするのはいささか浅はかであり、
強引すぎるところだけれど。

人が自分の中に違う人格を有することは、何も稀有な事ではない。
それが意図的なものであるか偶発的なものであるのかは別として。
またそれが意識的なのか、無意識によるものなのかも別として。

人はそれぞれにどのような形であれ、
何かしらの人格をつくりあげ日常を生活している。
それはその人の生きてきた環境に則して
その人が生きていく為に必要な形で。
時にそれは己を守るために、時にそれは己を高める為に。

そして偶発的かつ無意識による人格とは
まさに生存するための手段に他ならず、
それは生命の強さであり、それは人の叡智であろう。

であるならば、それを意図的に自らおこなう事で
自らが崩壊する危険を回避するために用いることに有用であること、
また己を高める為にも有用であることは、想像に難くないであろう。
自分で自分をプロデュースし、かつ自分をアクトする。
つまり自分という存在を、人格をクリエイトすればいいのである。

しかしながら偶発的かつ無意識による、
好むと好まざるをえず発現した人格とは異なり、
自らがプロデュースした人格であるが故に、
目測を誤り自分に演じきれない人格を
創造してしまうケースもまま存在する。

そうなると人はその新たな人格とのギャップに板ばさみとなり、
あるものはそのギャップを埋めることに奔走し、
あるものはそのギャップに押し潰され、
かえって自分を社会的に排斥してゆく。

この物語は、そうした現実とのギャップがもたらした
とある完璧主義者の悲哀であり、
そのギャップが為にリセットを選んだ愚かしくも哀れな顛末である。

人は潜在的ないし顕在的に人格をつくる生き物であるが故に
これは決して他人事ではなく、
一歩間違えればその危ういバランスのもとに
脆くも崩れ去る存在なのである。

その上で、今一度自分に問うてみたい。
今、自分である自分は、自分にとって無理のない人格であるのかを。

もしも、もしも綻びの生じている人格であるのならば、
そしてそれが自ら作り出した虚像であることを
まだ認識できるのであれば、再構築の必要性を確認したい。
それは自分自身ではなく、
自分が作り出した自分の仮面にすぎないのだから。

その仮面に固執せねばならぬ道理はどこにも存在しない。

今までにDVを受けた事がありますか?

日常茶飯事的によくアンケートにのぼる話題なのだけれど。
これに対する結果なんてものは、常に「はい」と言った答えが
勢い半数に迫ろうかと言うほどに高い。

まぁ今まで色々な女の子から話を聞いてきたりもしたのだけど、
彼氏に一度も暴力をふるわれたことがない女の子なんて
ほとんどいなかった。

中には彼氏にボコボコにされてるような子もいたりもした。

そういった話を聞くたびに驚きはするのだが、
世の中では結構DVなんてものが蔓延しているようだ。

しかしまぁ、なんでそこまで殴られてつきあって
結婚まで意識してるのか、まったく理解もできないのだけど。

男の方が女性よりも力が強いのは当たり前。
どう考えても負けるわけなどない。
絶対勝てる範疇で勝負して、
それで勝って何が楽しいのか、もう首を傾げるしかない。

せめて五分、できうるならば相手が自信をもっている
土俵で勝負して、完膚なきまでに凹ませるほうが
よっぽど意味があるんじゃないだろうか。

絶対勝てると思い込んでいてのまさかの敗北宣言ほど
屈辱感を味あわせるものはないであろう。
もちろんそれならば言い訳もできまい。

所詮、自分有利の土俵で虚勢をはるしかない愚者。
これを男らしさと錯覚してる者もまた同じく愚者。
そんな男なぞいざとなれば、我まっ先に逃げる事であろう。

結局のところ、怒りにまかせてのDVなんてものは
自分が受けたと錯覚している心の痛みと
同じ痛みを与えんが為の憤りの捌け口であって、
それは己だけにとっての、より効率的で直接的な報復にすぎず、
またその報復すべき、うけた仕打ちなどというものは、
大体において己の意にそぐわないなどと言った
かなり幼稚な類のものでしかない。

報復する事自身がもうすでに有り得べからざる事ながら、
更なるは、まさにソレでしか形にできない事に哀れみさえ感じる。


まぁ、アメとムチじゃないのだが、
DVなんてものはある種洗脳といって差し支えないものであって、
DVの後に訪れる平穏は、ある種緊張からの解放を伴って
強烈な依存を引き起こす。

ゆめ錯覚するべからず、本来の相手は平穏の中になど居ない。
平穏な状態は、相手の思惑の中で物事が動いている時でしかなく、
それは鎮静剤を打っているだけの状態であって、
鎮静剤が切れた時こそ、本来有りうべき姿なり。

女性の場合にはさらに母性もあるわけで、
簡単に相手を見離すことなぞ難しいのかもしれないのだけど、

まぁ、何もそんな奴と付き合って
自分まで馬鹿になる事はないっしょ。