あなたにとっての服とは?

これはもうほんと十人十色で、人によって服のありかたなんてものはそれぞれなわけだ。
もてたいだとか、自慢したいだとか、個性を表現したいだとか、寒さをしのぐ為だとか。

じゃあ、クソ高いブランド品を着る意味ってなんなのだろう?
ブランド品なんてひけらかす為に着るもんじゃないの?

ま、人によってはそれが真実でもあるし、それがその人の意思でもあるんだけど、
ブランド品ってのはそのブランド、そのデザイナーの主義主張を身に纏うものと僕は考える。

そのブランドの成り立ちを知り、デザイナーの意思を汲み取りつその服を見ると、
また新たな驚きと共にその服が如何にしてそのシルエットたり得るのかを
味わうことができるんじゃないかなぁ。

それは詩や絵画を読み解くにも等しく、その詩人や画家がどういう環境のもとで産まれ
どういう環境に育ち、どんな経験を経て、どんな出来事の渦中にそれを描いたのか。
それらをこと細かに思い浮かべながら読む詩や絵はことさらに趣き深い。

だいたいにして人の創作物なんてものは、先人が残した文化の焼き直しがほとんどなわけで、
そこに完全なオリジナリティなんてものを見ることはほとんどない。
じゃあ一体なんに対してそれらに価値を見出すのか。

そこに僕が見出すのは、作品の裏に秘められた背景が語るその意思やその主張であり、
その意思やその主張をどのような手法をもって表現されているのか、なんだと思う。

少し小難しく書いたけど、結局服を選ぶということはその意思や主張を選ぶということであって、
まさにさんざ繰り返されているように、生き方を選ぶってことに他ならないと思うんだ。

白衣はなぜ白いのか、法服はなぜ黒いのか。
そこには確とした意志が込められていて、それはそうあるべくしてデザインされている。
またコスチュームなりファッションスタイルなんていうものは、
経てきた歴史によってそこに確とした主義主張が付加されているのが常だし。

そんな風に大体において服なんてものは、それぞれのスタイルに意思や意志というものを内包し、
そこにブランドの意思や意志、デザイナーの意思や意志、
社会がそれに与える写像が絡まりあって、とあるひとつの主義主張となっているものだと思うのね。

だから服を選ぶということは、自分が伝えたい思いの決意表明であり、
自分を装うペルソナ(仮面)として社会に対し自分をそう規定する、
社会への関わり方の選択だと思うんだ。

例えばよれよれのチェック柄のネルシャツをケミカルウォッシュのジーンズにタックインでもして
リュックでも背負おうものなら、自分は典型的なヲタです!って主張してるようなもんだ。

いや、それが悪いとは言わない。
それが自分の主張するアイデンティティであるのならば大いにヲタをアピールすべきだろう。

同じように LIZ LISA や Victorian maiden の可愛いフリフリでも着てれば
姫系です、ゴスロリですって主張してるようなもんだろうし、
はたまた Hysteric Glamour や Vivienne Westwood なんかも
アイテムの選び方でパンクスですって主張してるようなもんで、
ファッションと言ったものはそれぞれにそれぞれのスタイルが社会に向けて、
概ねなんらかの主張をしているものなんだと思うんだ。


ま、とにかくそんな感じで各ブランド、各デザイナーがデザインする服には
そこに確固とした想いがあったりするわけで。

COCO CHANEL は従来の、女性を女性たらしめんとする性的象徴であったコルセットなんかを避け、
紳士服の機能的で快適な優れたディティールを取り入れ、且つフェミニンさを表現することに注力した。
はたまた CHRISTIAN DIOR は女性が女性らしくいられるために、
ウェストを締め上げたり肩を傾斜させたりして、女性の本質を強調する服をデザインした。
YVES SAINT LAURENT なんかは COCO CHANEL の意志を引き継ぐかのように
当時婦人服としては市民権を得ていなかったパンツを採用したデザイナーでもあるし、
MIUCCIA PRADA は男性におもねる事なく、またかといって紳士服的なアプローチをするでもなく、
常にアバンギャルドにフェミニンさを追求していった。

今ここにあげたほんの僅かなデザイナー達のみならず、その何十倍何百倍以上もの
数多くのデザイナー達が本当に様々な想いを込めて服をデザインし続けてきた。

そしてブランド創始者が没したり引退したりした後もブランドはヘッドデザイナーを変え、
その意志を引き継ぎ、またブランドとしての新たな意志を紡ぎだしてゆく。
CHANEL が KARL LAGERFELD の色になったように、
DIORが JOHN GALLIANO の色になったように、
Louis Vuitton が MARC JACOBS の色になったように。

そしてそんなハイブラが持つ意思や意志なんてものをマス化し大衆に落としこむ役割を担うのが、
各ブランドのセカンドラインであったり、セレオリであったり、COMME CA DU MODE や
BURBERRY BLACK LABEL なんかが代表するいわゆる丸井系ブランドであったり、
末端のノーブランドだったりするわけで、僕達は自身の財布と相談しつつその主義主張を選択する。


はてさてこの日本においても、そんな偉大なデザイナー達にひけをとらない大物が健在だ。
川久保玲氏率いる COMME des GARÇONS、山本耀司氏率いる Yohji Yamamoto。

他の有名ブランドの創始者が引退し次々とそのデザイナーを変遷させていく中、
彼らはまだ第一線で活躍している。

これが何を意味しているのか。

そう COMME des GARÇONS しかり、Yohji Yamamoto しかり、
川久保玲氏や山本耀司氏の想いをまだ直に身に纏えるということだ。
そして彼らに与えられた時間は哀しいことながらもうあと僅かということだ。

その意思の幾ばくかを渡辺淳弥氏や MARTIN MARGIELA に垣間見たとしても
それはもう COMME des GARÇONS でもなければ Yohji Yamamoto でもありえず、
Junya Watanabe であって MARTIN MARGIELA でしかありえない。

常にアバンギャルドで在り続けることに執着してきた COMME des GARÇONS は、
そのアバンギャルドさが故に、川久保玲氏が引退した後はもう正確な意味で
ブランドを引き継げるものなぞ居はしないだろう。

この両氏がモードに与えた影響ははかりしれない。

それまでモードにおいてタブー視されてきた「黒」という色による衝撃。
そしてつぎはぎだらけのボロのようなデザインでモードを否定した COMME des GARÇONS。
「着る」ではなく「纏う」を想起させるひらひらと布を靡かせた Yohji Yamamoto。

そこに秘められた想いはとても深く、彼らの言葉を拾ってみると実に興味深い。


だからこそ着たいんだ、COMME des GARÇONS を Yohji Yamamoto を。
だからこそ見たいんだ、COMME des GARÇONS を Yohji Yamamoto を。


そんな想いで服を見ていたのはもう十数年昔の話ではあるのだけれど、
それらのブランドが存在するフロアはひったすら空間がとられた独特の雰囲気で、
客数に見合わないたくさんのオサレな店員さんがこちらを威圧してくるんだ。

もうね、ヒキヲタにはとてもつらい、つらい。わかりますか?このつらさ。
あまりのつらさにフロアに降り立つやいなや、回れ右で何度立ち去ったことか。

だから威圧されないように、給料ボーナスを握りしめ、服を買うための戦闘服を用意し、
知識をつけ、ポーカーフェイスをきめこみ、店員さんとお話しましたさ。

これはもうなんの修行だろうかっと思ったほどに。

そんな思いまでして着たかった羨望のブランドであったわけなのだけれど、
そんな思いまでして自分が身に纏いたかった主義主張であったわけなのだけれど。
そんな思いまでしたからこそ、それに身を包んだ自分に誇りがもてるんじゃないかなぁ。


だからね、一着でいい。

どんなブランドのどんなスタイルがその人の想像する素敵なファッションであるかは
人によってばらばらで大きく違うだろうけれど、
本当に自分が気に入った、自分が格好いいと思える、可愛いと思える、
主義主張をもったデザインの服を着てみようよ。
例えそれが身の丈にあわないクッソ高い服だったとしてもいいじゃない、


それはまさしく自分が自分らしくある為の一着になりうると、そう僕は思うんだ。

私は本を読むのがとても遅い。
活字を目で追う事がとてもとても遅い。


それはまるで活字を1文字1文字舐めるかのように、
そうしてあたかもそれがほんのり淡い透明水彩を幾重にも塗り重ねた絵でもあるかのように、
はたまた見目鮮やかな発色をしたアクリルガッシュの軽快でポップな絵でもあるかのように、
私は文字を眺める。

すると文字はさながら何かの魔法に煽り立てられた踊り戯れる戯画の様に躍動をはじめ、
やがては滲み翳み、眼前には360度のパノラマにも似た幻視空間が開展される。
そこに現れたる豊かな種々の色に彩られた絵の一枚々々が、
まるで120fpsを越える猛速度でコマ送りされた活動写真ででもあるかのごとく、
滑らかにそして五月雨式に紡がれ、私の周りを色世界で埋め尽くす。


私は本を読まない。
いいや、おそらく私は本というものを読んでなどはいない。

ならば私は本を観ているのであろうか。
否、おそらくそれも正しい表現とは言い得まい。

きっと私はそこに心を移し、本の世界を彷徨う傍観者と化しているのであろう。

360度のパノラマスクリーンに映し出された情感溢れるこの活動写真は、
十分すぎるほどのリアリティを以て、私に現実との区別を残さず根こそぎ奪う。

そこに息づく人々は、喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、私の横を通り過ぎ、
耳をすませばそこかしこに喧騒、風の匂いまでも鼻腔をくすぐる。

私がそれに憶えるは、まぎれもなく私にとっての現実。


そう、私にとってのその現実に於いて、確かに、確かに彼等は生きている。

しかれど現実には決して知り得ない、
この傍に佇む彼、彼女の心模様はつぶさに私の心に染み渡り、
その想いは如何ほどの怪訝もなく心に溶け落ちる。

そしてその想いに私は心を揺らす。


クオリアなぞ持たないであろう彼等なれど、その心模様は私の心を揺さぶる。
むしろクオリアなぞ持たないが故に、その心模様は私の心を激しく揺さぶりやまない。
彼等のその心模様に不純な想いの交錯なんぞあるはずもなく、
彼等に定められた唯々純粋な想いのみばかりが彼等にとっての全てなのだから。


口性ない輩は口汚く罵る、そんな純粋な想いなどあるはずがないと。
それは現実というものを都合良く粗悪に模した苟且であると。
然してそんなくだらない感傷に満ちた三文芝居に心動かされるはずがないと。


ならば私は問う、それ以上にこの世に純粋な想いなどあるものであろうか。


それが現実でない以上、それは確かにただの物語という文字の羅列が生み出す
荒唐無稽な絵空事でしかなく、一笑に付し鼻で笑う戯言でしかないのであろう。

けれど、もし、もしも彼、彼女が私にとっての実在であるのならば、
それは私がこの世でいかに渇望し希求すれども手にすることも能わない、
不朽不変にして不滅の紛う方なき純潔の想いではないのであろうか。

私を現実と虚構の境界が曖昧な気でも触れた奴と罵るも良いであろう。

しかれど例えそれが万人の期する現実などではなく、
それをいかに滑稽と嘲笑われようと、私はその永遠の想いに、


涙する。

悲嘆に暮れ黯然銷魂のうちに厭世を極め込む事の、
なんと愚かしい様なる也。

悲観とは、朽ち枯れ腐り落ちる為に存ずるに非ず。
悲観とは、開花への逕路に過ぎない。

悲観なくば楽観あり得ず。
悲観なき楽観はただの惚けか。


だからこそ、僕は今日と謂う今を思い悩む。