寂しさから生まれた恋は、寂しさしか生まない。


人はどこまで行けど、己は己でしかありえず、
人はどこまでも孤独な存在でしかありえない。

寂しさを寂しさとして受け入れるより他にありえず。
寂しさと向き合う事でしか、寂しさなぞ見えてこず。

どこまでいったって自分は寂しい存在だと自覚できるからこそ
寂しさに耐えられるんだ。


だからね

「この人が居ないと寂しいから、好き」なんだろうか?

いやきっとね

「この人が居て楽しいから、好き」なんだよ
愛ってなんだろう?


ついぞ当たり前のように「愛」という言葉を口にするのだけれど
誰もがおもいおもいに「愛」を定義しこそすれ、
万人をしてこれぞ「愛」だなんて結論に至らず。

そんな「愛」だの、「恋」だの、目に見えない抽象的な概念を
枠にはめようという目論見がすでに茶番でしかないのだけれど。
それでも敢えて、敢えてここでは考えてみたい。


「愛」とは?


人によって、「愛」は真ん中に心がある真心だとか
見返りを求めないものであるだとか、愛は与えるものだとか
まさに千差万別の様相を呈す。

どこからどこまでの線引きで、それが「愛」であるのか「恋」であるのか
闇雲に人は違いを求めたがるが、そこに明確な境界線なんてものはなく
ただ曖昧に定義してわかったような気で居るにしかすぎない。

そも「愛」の中に恋しいという気持ちがないわけでも
「恋」の中に愛しいと想う気持ちがないわけでもなく
其れが故にその境界線の位置は朧々にして不定、流動的にして胡乱。

で、あるにも関わらず、確かに人は「恋」と「愛」を何かで
区別している事は明らかではあるのだけれど。


じゃあ「愛する」って本当になんだろう。


昔々その昔、自身のブログでこう述べた。
「人は恋するために生きている」「人は愛されるために生きている」と。

それは生きる原動力こそが人を愛する事と密接な関係をもっており
誰しもが誰しかを愛するようデザインされていると言うべきなのであろうか。
とにもかくにも、人が生きる目的を「愛」に見出すことは至極当然の帰結で。


人は誰も一人では生きていけないのだから。


そこで逆説的に「愛」を考えてみようじゃないか。

人が生きる目的を「愛する」事に見出すのならば、
そして「愛される」事に生きる目的を求めるものであるのならば、

自ずと答えは見えてこないだろうか。
そう、そこから導き出される答えは一つ。


「貴方に生きて居て欲しい」


単純だからこそ見落としがちで、単純だからこそ気づかない
まさにその一点。

貴方が生きているからこそ、貴方を愛しいと想え
貴方が生きているからこそ、貴方に愛しいと想われる。

すべてはそこに集約される。


ただ、ただ貴方に生きて居て欲しい。


そう願う事こそが、「愛する」というモノの原点なんじゃないだろうか。

親が子を愛するのも、ただ生きていて欲しい。
人がペットを愛するのも、ただ生きていて欲しい。
人が人を愛するのも、ただ生きていて欲しい。
人が物を愛するのも、変わらず壊れずにそこにあってほしい。


そこに貴方が居てくれるから、私は貴方という人に惜しみない愛を注げ
貴方という存在があるからこそ、貴方は私に惜しみない愛を注いでくれる。


「愛する」なんてどう定義したって、されたって構わない。
小難しい理屈なんてどうだっていい。

ほんとに、たったそれだけの事なんだ。



「どうか無事に健康で生きて居てください」



仕事の帰りに、フラフラと映画館へ寄って見てきたのだけれど。

ざくっとした粗筋は簡単、鬱病になってしまったツレアイとの夫婦生活の中で
どのように鬱病と付き合っていくかを、鬱病とは何かを考えながら
描いていく作品。

あまり仰々しく重い内容にならないように、比較的ライトなタッチで、
時にクスっとした笑いが洩れ出るように構成されている。
実際に鬱病に直面された方々にとってはとてもじゃないが
笑い話ではないのだろうけれども、ここは鬱屈とした悲愴感を煽るような
内容にするよりは、妥当というものであろうと思う。

かといって、この映画の主題が主題としてある限り、
其の鬱病たる病気の実情を描かないわけにもいかず、
時折シリアスな展開も顔を見せる。


未だ人は、やっとその心の問題の入り口に立ったに過ぎず
其の心の何たるかもわからぬままに、今日まで看過され続けてきたのだけれど。
其れも昨今になって漸く認知されてきたとは言え、依然その実態なぞ
身に降りかかる事もなくば知ろうともされず、不躾に口汚く誹る者も少なからず。

そんなこの世の中に、正しく鬱病と言う病を認識してもらいたいと
この映画は社会に一石を投ずる。


実際のところ身近な人が鬱病になった場合、どのように接していいか
迷う事になるのは至極当然の流れで。
簡単に鬱病と言っても一括りにはできないほど千差万別の様相を呈するというのに、
今まで碌に関わってこなかった人にとっては不可思議でしかあり得ず。

そもこの映画のように夫婦という関係性である以上
絶えず誰よりも身近であるが故に、病気の如何に関わらず
人と人との共同生活に於いてストレスが生じる事は必然であって
そんな何気ないすれ違いさえも命取りとなるような状況にも
直面する可能性も秘めるのが鬱病と言う病であったり。

鬱病を患ってしまった本人が苦しみ、懊悩するは順当としても
やはりその周りの人々にもその煩悶は当然の事ながら波及する。

まさにタッチのライトさとは裏腹に思うよりも深い問題であることは
想像に難くない。


愛する人が毎日「死にたい死にたい」と悲痛に藻掻き苦しんでるのを直視できすか?
そんな大事な人に何もしてあげられない自分に歯がゆさを覚えませんか?


そう、愛するが故にまさに罹患されている方々と同じような苦しみを
自己も背負う事になるのです。

映画では気丈で愛溢れる妻が柱となって、今にも崩れ落ちそうなツレアイを支え
病と向き合っていくハッピーエンドとなるのですが、
果たして其れを成し遂げられるだけの芯の強さを持てる人が
如何ほどに居られますか?


口では如何様にも、愛してる、守ってみせると美辞麗句を並べることは容易い。
がしかし其処には、病に伏している大事な人と共に懊悩を共有し
共にドン底へと落ちていく覚悟が必要であることは言うを俟たない。


中途半端な思いなど、迷惑極まりない。


だからこそ、こうしてツレアイを支え回復を迎えた原作者のご夫婦に
惜しみない賛辞を称えたい。

共にドン底にありながら、それでも相手を想い、決してその想いはブレる事なく、
手を取り合う闘病生活はとても胸に熱いものがこみ上げる。


今や鬱病も珍しい病気でもなく、少し周りを見渡せば極々当たり前のように
患っている方々が居られます。

現在そんな闘病されている方々、その周りにいる方々が、
少しでも偏見のない社会で、心の傷を癒せますよう
できうる限り正しい知識をもって、鬱病なるものがどういうものであるのかを、
理解するために見ていただきたい一作。