ペシミズムは麻薬の如きようなものかもしれない。

そも人は決して強い存在ではあり得ず、
惨たらしく残酷な現実というものの前に人はあっけなくも心を折られ、
毒を持って毒を制すかの如くペシミズムの苦くも甘い誘惑に捕らわれる。

人はオプティミズムに軽薄さを覚え、ペシミズムに真理を見いだす。
然も人がペシミズムな生き物であるとばかりに。


「どうせ自分なんて」「どうせ世の中なんて」


非情なこの世の中を斜めに、「どうせ」と片付けるペシミズムは
一瞬間の痛みを忘れ得ることができる麻薬なのかもしれない。

しかし麻薬は所詮麻薬にしかすぎない。

痛む、抉られた傷口を前に、決して塞ぐ物では在り得ず、
ペシミズムという快楽に身を委ね、只その患部を悪化させていくばかりで。


果たしてペシミズムとは本当に麻薬なのであろうか?


否、決してそうだとは思えない。
物事の本質から目を背けるが故に麻薬と成りはてるに過ぎない。

本来的にペシミズムとは、あるがままの現実を
あるがままに受け入れる為のものであって、
それは今という現実を正しく見据える為のものでしか有り得ない。


悲観に酔うことがペシミズムなぞでは断じてない。


何故なら、ペシミズムの心の奥底には、必ず幸せへの羨望が存在するのだから。
幸せを諦める裏側には、必ず幸せへの渇望を秘めるのだから。

そうペシミズムとは、喉から手が出るほどに希求しながらも
求め得られなかった絶望感がもたらす「諦め」でしかないのだから。

それ故に、この惨酷な現実に疎ましさを覚えながらも、
心のどこかで蜘蛛の糸を求めるのが人というものではないだろうか。


だから、だからこそ
ペシミズムの中に光明を見いだそうじゃないか。


麻薬を断ち切り、傷口を直視することは決して容易な事ではない。
でき得れば避けて通りたいものであり、
その心の痛みに人は狂気に囚われるのかもしれない。

けれど、所詮麻薬なんぞというものは
常習するほどに依存を引き起こし、心は麻痺し、人としての感情を蝕み、
己を腐蝕させていくものにしかすぎない。


人は決して不幸になりたいんじゃない。
不幸のままで良いとも思っているんじゃない。
人として人成らざる者になんて誰も望んでなぞ居ない。


だからこそ、痛みに目を向けるんじゃないか。

例え其れが惨く正視に耐えない現実であろうとも
それを認め識った上で、自分が本当に望む何かを見いだすために。

そして、本当に手に入れたい何かを掴むために。


その為のペシミズムだと、僕は思うんだ。
そしてそれこそが、オプティミズムだと思うんだ。
昨日は今日の為に
明日は今日ゆえに

当たり前なのだけれども
だから人は今を生き、今を伝える。

今を生きる為に昨日を振りかえらなければならない。
今を生きる為に明日を見通さなければならない。

昨日を振りかえる為に現状を正確に把握しなければならない。
明日を見通す為に現状を正確に認識しなければならない。

人がどこまで行っても時間というものに抗えないのならば
結局は、今を生きて今を精一杯伝えることしかできないのだから。

人は今に拘るのでしょう。
僕たちの心はどこかに潜み、誰にみつかってもないのだけれど。

時に心は身体に宿り、絵に宿り、音に宿り、そしてコトバに宿り。
そして今や心は光の速度で移動し、交わり、通じ合い、
その「世界」を無限に広げ続け。

世界のどこかで心が芽吹き、世界のどこかで心がしおれ、
この「世界」は拡がり狭まり、伸び縮み、膨らみしぼみ。

斯くして僕たちがこの「世界」を否定しない限り
「世界」はどこまでも失せる事なくそこに存り続け。

それはまるで集団幻覚の如きものであろうとも。

斯くして僕たちは、誰かが僕たちを認識している限り
僕たちはこの「世界」の住人で在り続け。

そして僕たちはこの「世界」に心を残す。

心が心である限り、例え過ちを繰り返そうとも。