本当の自分、本当の心、本当の気持ち

幾度となく繰り返される「True」
恰も其処に一定の固定された自我が存在するとばかりに。


本当の自分って?本当の貴方って?

でも多分、本当の自分も本当の貴方もきっと在りはしないのでしょうね。

きっと、きっとね、人って形のない認識できないものに恐怖し
其処に形を与え名付ける事で既知のものとし安堵するのでしょう。

そうしてきっと、自分の心をも形作ろうとするのでしょう。
そして相手の心をも形作るのでしょう


きっと何者にもなる必要もないと言うのに。

「心」とは記憶である。

人は思い出という記憶に働きかけることで心を持つ。
記憶が無いのであれば、
それはもう刹那的にただ反応するだけのオートマタに過ぎないのだから。

そして記憶があるが故に「死」を認識するのであろう、
其れは確かに生きていたと。

で、あるのならば

「生」も「死」も其れは私の心の中にあるものであって
ともに其れは私の心の中に存在し続けている事に違いはないのでしょう。
そしてそれらの記憶は私の心の一部として
私が息絶えるまで其処に在り続けるのでしょう。

だから私は君の「死」を悼まない。

共に私が朽ち果てるその日まで、
のんびりと穏やかに一緒にすごそうじゃないか。


あなたは無知ですか?


こう問うてしまえば、多くの人は必然的に肯定を返す。
ソクラテスの「無知の知」があまりに万人の知るところたりえ
無知で在る事を知るということが、
如何に己を高く評価する事に繋がるかを認識しているが故に

無知であるという事を忌避すべき物と蔑み、
愚昧の具現であるところの、無知を心得ぬ無知を唾棄すべき物と猶も賎しみ
其れをして罪であると看做すが故に

人は己を無知であると称する。
「無知の知」と謂う成句を知っているだけにすぎないのに。

そうして人は、「無知の知」により己の優位性を確認して安堵する。
無知であることを知っているが故に自分は賢人であると。


なのに、人は時に己の無能無知を悲嘆し、絶望的未来を推し量り悲観する。
無知である事を嘆きつつ、全知ででもあるかのように嚮後を知っているぞと
言わんばかりに。

これは何の戯言であろうか?

抑も、十年後はおろか明日をも知りえぬ痴れ者が
明日を帰納的推論により知ったような気になっているだけにも関わらず、
其れだけが全てであるかの如く其れを妄信し、
ただ其れが無知で在る事からくる悲観的嚮後にも関わらず、震え慄き藻掻き苦しむ。
まるで其れが罰ででもあるかのように。

愚か明日をも知らぬ無知なる輩は
自ら無知を称するも、ついぞ無知である事を自覚できず。


人は無知である事を忌避するが故に、知を渇望する。
にも拘わらず、人はその「知」によって、然も其れだけが瞭然たる理の如く盲信し
眼を曇らせ、振り回され、其の眼を真実から遠ざけてゆく。
もうこうなると、「知」に溺れるは正に無知に等しいと言えるであろう。

即ち、無知で在ると謂う事は無知で在るが故に
何物をも懐疑するという事に他ならない。
知らないが故に何物にも目を曇らされない、模索への可能性に他ならない。
そして例え僅かなるとも、可能性を見出す希望に他ならない。


僕は全知なんぞというものが絶対的な幸福だとは思わない。
無知は無知であるが故に希望であり原動力たりえる。

明日は知りえないからこそ、其処に可能性を見出せ、
全ては知りえないからこそ、其処に夢を見出し希望を見出せる物なのだから。



だからね、明日なんて何が起こるかわかんないんだよ。

そんな有るか無いかわかんないようなちっぽけな知識でだした答えで
この先を悲観してても仕方ないじゃん?

変に自分は頭が良いと思ってる奴に限って、悟ったような口をきくけど
自分が本当に無知だって思うんなら、明日を信じて今日できることを精一杯やろうよ。


あなたは無知ですか?