前回の、シャルル・ニコラ・バザンの続きを書きます
印をC.BAZINとしたころ、彼は33歳~38歳。
町でも一目置かれる職人になっていました。
彼は事業と並行して、同業者と協力して地元の事業を盛り上げるのにも貢献しています。
また、軍役に関する職人の特別免除”Titre d'Art"を公式に認めるよう政府に訴え、
職人の兵役を5年から3年に短縮することに成功します。
(このタイトルによる免状は、1875年~1889年まで存在)
この働きが認められて、町の議員としても活躍するようになります。
C.N.Bazanのアトリエでは、のち成功してパリへ行った弓職人たちも当時働いていました。
彼は素晴らしい人格者で、教育者でした。
弓作りも磨きがかかり、繊細で優美、統一性があり調和のとれた弓を作ります。
材料のペルナンブコ材にもこだわり、厳選して良い素材を使いました。
装飾の美しい弓も作り、持ち手のバゲット部に螺鈿の施されたものや、
彫金師と共同して、フロッグの金属部に美しい文様を入れたりもしています。
彼の1900年の商品カタログを見ると、何人もの独立した腕の良い職人を抱えていたことがわかります。
年間で質の良い弓を、2~3全本も世に送り出していました。
また、政府が政策として、フランスにおける重要な職人の養成学校を各地に作ることに着手していました。
BAZINはこの政策で、弓作りの学校を開くことを望み、町議員の立場から計画を進めようと努めます。
しかし、最終的に権利を獲得したのは、THIBOUVILLEでした。
チブヴィルも、有名な弓作りメーカーですね
そうこうしているうちに、彼も引退する歳になります。
1907~徐々に、息子のCharles Louis シャルル・ルイへ仕事を任せるようになります。
ですが、父親の引退後も、息子のC.Lは、常に工房内に父親の席を残していたようです。
C.N BAZAINは最後の時まで、このアトリエに来ていました。
1915年、68歳で生涯を終えます。
う~ん、こんな感じでしょうか。。。
ミランさんの本には、彼が素晴らしい教育者で、人格者であったことが、強調されていたように思います。
それにしても、年間で2~3千本の弓だなんて、すごい膨大な数・・・・。
複数職人がいたとしても、大量ですね。
何人抱えていたんだろう。
各地へ学校を作る、というのも、ようやく中央が前より安定したから、
国策をきちんとできるようになったんでしょうか?
日本も幕末は大混乱でしたが、ヨーロッパは、
常に大混乱って感じですね
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