弓職人紹介、今回はクロード・シャルル・二コラ・ユソンです![]()
話が冒頭からそれますが、
ユソンではなく、ウソンと言ったほうが、良いのか、
カタカナ表記は、難しい!
フランス語の”E”のアクセントは、日本語の”ウ”にとても近いです。
が、”U”のアクセントは、”ウ”と”ユ”の間、のように私はイメージして発音しています。
(HussonはHで始まりますが、フランス語はHを発音しません。)
この、”E”と”U”の違いをはっきりしないと、別の言葉になってしまったり、
フランス人にとっては相当違和感があるようで、要注意です![]()
語学が苦手な、私が言うのも、怪しいですけれどね![]()
さらにどうでもいいですが、
”本田さん”と”恩田さん”がいた場合、フランス人はどちらも”おんだ”と言い出すので、
「どっち?頭に”H”ついてる?」って、聞きなおしたことがありました。
いや、サッカーの本田選手を知らなかった私が、そもそも間違ってるんですけどね![]()
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Hussonは、1872年10月23日に、ミルクールで生まれました。
父親はレース職人です。
ミルクールにて、弓作り修行を始めます。
この時学んだのは、ペカットスタイルだそうです。
(ドミニク・ペカットは、Hussonより13歳年上だから・・・
ペカットは1838年から黄金期に入るようなことが、前に彼を調べたときわかったので、
Hussonが15歳の時には、ペカットはすでに軌道に乗っていることになりますね。)
Hussonの初期の作は、1845-50年頃のものになるそうです。
この時、Hussonは22歳~27歳。
このころの作は、Simonシモンや Maireメールと、作風が似ていたそうです。
ヘッドは力強く、面取りも大胆。
1844年には結婚をし、子供も1846年に生まれるのですが、その後奥さんはなくなってしまいます。
1847年に再婚しました。
再婚者は、なんどVigneronの未亡人で、義理の息子はのちのVigneron Péreヴィニュロン・ペールです。
Hussonの弓はこの後、ペカットのスタイルよりも、華奢で軽くなっていきます。
Voirin-Vuillaumeスタイルに近くなっていくようです。
Hussonの弟子には、のち有名になる弓職人も、多くいます。
自分の息子、Charles Claudeに、義理の息子ヴィニョロン・ペール、
それにのちのラミー・ペールと呼ばれる、Alfred Joseph LAMYも、Hussonの下で学びました。
ほかにも、今では無名ですが、弓職人の弟子たちを抱えていたようです。
HussonはBazinバザンともつながりが深かったようです。
Bazin一家とは家族ぐるみの付き合いだったようで、とりわけ、François Bazinと
親しかった様子。
ミルクールの弓職人の中で、Husson とBazinは成功者だったようです。
ですが、彼の息子と甥(Mars August)がパリへ行ったのち、
Hussonの名前は次第に聞こえなくなっていきます。
その代わり、バザンが質の良いミルクールの弓職人として、
有名になっていきました。
1872年10月21日、Hussonは亡くなります。
義理の息子Vigneron Pereは、Hussonの死後は、
Jean-Joseph Martinのところへ働きに出るようになります。
C.C.N.Hussonは、数多くの優秀な弓職人を育てたにもかかわらず、
本人は極めて不遇であったといえる弓職人です。
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同じ文を何度も読んでいると、
作った文章がすべて変に思えてくる![]()
ともかく、Husson は、こんな感じの弓職人でした![]()
アトリエにHusson が売れていなければあったのですが・・・・
写真がないのは、殺風景ですね![]()
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