相変わらず、時間がたくさんあります笑い泣き

いや、有意義に使えば、時間がありすぎということはないはず・・・!

 

ヴァイオリン、弓職人について調べたことを簡単に載せようと思います。

今回は、Nicolas Rémy Maire、

ミドル・ネームのレミーを除いて、いわゆる二コラ・メールです。

メールじゃなくて、メアーというほうが、日本の公式なのでしょうか?

 

注意を一つ。

参考書はできる限り間違いのないよう翻訳して、まとめたつもりです。

が、間違っている個所もあるかもしれません。

100%確実ではないです。

そのあたり、寛大な気持ちで見ていただけましたら、うれしいです。

もしも、「それ違う!」と気づいたら、メッセージいただけても、うれしいですm(_ _)m

 

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1800年、Nicolas MaireはMircourtミルクールに生まれ、最後はパリの自宅にて亡くなります。

Mirecourtと言えば、バイオリンにとってのクレモナくらい、弓職人にとっては、重要な街です。

父は織物工でした。

一部の本に、パリのLafleurの下で修業、とあるそうですが、その可能性は低く、

彼は生まれ故郷ミルクールのEtienne PAJEOTの下で修業した、というのが妥当なようです。

1826年には、自分名義で商売を始めます。

 

順調な駆け出しとなりましたが、

フランスは1830年から、深刻な不景気に陥り、ほとんどの職業に就く人々が大打撃を受けました。

Nicolasも不況の波に逃れることはできず、1830年に破産申告をしています。

そんな中でも、質の良い弓作りに成功し、のち急成長を遂げます。

 

弓のスタイルは、Pajeotの特徴に似ており、それがEtiennne Pajeot がなくなるまで続いていることから、

Nicolas自立後も、二人は仕事上で深い関わりのあったことを思わせます。

1849年のPajeotの死後、彼はパリへ行くことを決めます。

 

パリ時代には、有名な、Maison GANDや、Vuillaumeのために弓作りをすることも多かったようです。

修復もしており、CHANOTとの関わりもありました。

 

彼は生涯を通して多くの弓を作り、クオリティの高い美しい弓をたくさん残しました。

D.PECCATTEモデル、TOURTEコピーもあったそうです。