「6わのからす」

 

 緑が濃くなってくると、あたりから草いきれの香りも漂ってきます。春の新しい芽吹きから、

日ごとにぐんぐん伸びてきた葉っぱたちのおしゃべりも聞こえてきそうです。恵みの雨をもたらす梅雨のあとには、入道雲がせりあがってきて夏本番です。

次々に季節の変化を感じることができるのは、細長い国日本のありがたいことなのかもしれません。自然の豊かさをその都度伝えてくれている証拠です。その豊かな自然の恵みは、人々にも大きな実りをももたらしてくれます。

農夫は、そんな暮らしを満喫していましたが、困った様子です、どうしたんでしょうか。

 

バラバドゥールののうふはゆたかなとちで、むぎをたがやし、そのくらしは もうしぶんなかった。ただ 6わの うるさい からすさえ すを つくっていなければ。からすは ちょうど むぎがみのるころ やわらかいむぎを ついばむのだった。おもいあぐねた のうふは かかしをたてた。こわくなった からすたちは 「おれたちが あいつを こわがらせて やるんだ!」いろんないけんがでたが からすたちは おそろしい たこを つくることに きめた。

かかしは ぴくりとも しなかったが、のうふは ひどくこわがって こやに にげこんで かぎをかけた。「もっと おそろしい かかしを たててやる」のうふが たてたのは りょうてに つるぎを ふりかざした おおきな かかしだった。

からすたちは このあたらしい かいぶつを みると もっと おそろしい たこを つくった。のうふは おそろしさのあまり こやから でることも できなかった。

いちぶしじゅうを みていた ふくろうは あたまを ふりながら おもった。

「のうふと からすと、ばかなのは どっちかね。」

ほったかされて しおれていく むぎをみて ふくろうは のうふとはなそうと きめた。

「からすと なかなおり しては どうかね?」

「もう ておくれだ」おこって のうふは いった。

「はなしあいに ておくれは ないよ。」ふくろうは いった。

ふくろうは からすに あいに いった。むぎがだめになりそうだと きいて とほうにくれた からすたちは たずねた。「どうすりゃ いいんだ?」

ふくろうは いった。「いって はなしあうんだ。ことばには まほうの ちからがある。」

 のうふと ふくろうは ふくろうの すのまえで えんえんと はなしあった。はじめは どなりあい 、やがて しずかに しまいには むかしからの ともだちのように。

そして、いっしょに おおわらいした。

 あのおおきな かかしのかおは おそろしい しかめっつらが たのしそうな えがおになっている。 「なにが おこったんだい?」

「ことばの まほうさ。」ふくろうは いった。

 

 ゴミのまわりを飛び回るカラスたち。日本中どんな場所でも、見かけるカラスたちは天敵のように思われていますが、かなりの知恵者でもあると言われています。目がとてもいいので、一度自分達を追い回した人間の顔は、しっかり覚えているらしいのです。絵本の中だけではなくて、そんな人間との知恵比べが実際に各地でなされているようです。

レオ・レオニは、そんなカラスたちを主人公の一人に選びました。この絵本では農夫とカラスたちの麦を巡ってのバトルが始まっていました。農夫は生きていかねばなりません。麦は農夫にとっての大事な生きる糧です。それを、目の前でまんまと取られてしまっては、たまったもんじゃありません。でも、カラスたちも生きていかねばなりません。農夫の麦は、カラスたちにとっても、大事な食料です。さて、どうしたらいいのでしょうか。

そんな時に登場したのが、生き物たちの中で一番の賢者と知れ渡るフクロウです。

フクロウは、両者をつなぐ手立てを「話し合い」に、導きました。

諦めずに、えんえんと話し合います。

~はじめは、どなりあい~やがて、しずかに~そして、友のように~ともに笑いあう~

何故、農夫とカラスは笑い合うことが出来たのでしょうか。

それは、お互いを知ることだったのではないかと思えてなりません。麦を作るための農夫の苦労、カラスたちが生き抜くための農夫の麦の美味しさと大事さ、その想いを分かち合えたところで、とものように笑いあえたのではないでしょうか。

フクロウは、言います。

「話し合いに手遅れはない、言葉は魔法だ」

 

今も戦争が続いています。誰も終らせることが出来ません。

なぜ、結び合うことが出来ないのでしょうか。笑い合いことが出ないのでしょうか。

レオ・レオニの絵本には、教訓めいたことがあるという人がいます。私には、そうはおもえません、教訓ではなくて、これはレオニじいさんのあらゆる生き物に対する優しさの賜物なのだと、私には思えます。