さて、だんだんと時代がすすみまして、

 

この、いわゆる「西洋のクラッシック音楽の歴史」にも

いよいよアジアの登場であります!

 

思いおこセバ。。。

 

1907年、マーラーはシベリウスに、

 

「音楽は世界のすべてと結びつかなければならない。」

 

と、

言ったそうですが、

音楽はそれ自体が大きな世界になってゆきました。。。。

 

 

え? 僕、そんな事いったっけ~?

 

 

言ったやん~。覚えとらんのぉ〜?

 

 

 

たとえば、オーストラリアの作曲家が、

オーストラリアの奥地のリズムを使ったり。

 

カナダの北の湖だけで演奏する曲を作ったりと、

音楽の世界地図はどんどん一つになってゆきます。

(西洋音楽の地図っていう意味です。)

 

 

ドビュッシーはジャワ等やバリ島の音楽に興味をもったのは、

1889年の、パリ万博でした。

 

 

 

たまには僕の事も思い出してね〜。

僕は今でも人気ものだよ。

 

 

はいはい。。。。

 

 

 

そして、不思議な運命の

 

(((((( パリつながり ))))))

 

早回し。。。。キュルキュルキュル。。。

テープの回る音。

 

 

 

それから50年後、

 

 

14歳の日本人少年は

戦争中に聞いたシャンソンに衝撃を受けます。

 

こんな音楽があったのか。と。

 

 

 

 

 

その少年とは。。

 

そうです。「世界のタケミツ」こと、

武満徹であります。

 

 

 

いえい~!!

 

 

彼は1930年に生まれました。

 

驚くべき事に彼は独学らしいです。

まずは、ドビューシーとメシアンから。

そして、ブーレーズとケージに。

 

戦後は進駐軍でジャズにも興味をもち、

ウィキによりますと、以下の通り。

 

*******

 

1949年東京音楽学校(この年の5月から東京芸術大学作曲科を受験。

科目演奏には最も簡単なショパンのプレリュードを選び、

妹の下駄を突っかけて試験会場に出向いたが、

控室で網走から来た熊田という天才少年(後に自殺)と意気投合し、

「作曲をするのに学校だの教育だの無関係だろう」との結論に達し[12]

2日目の試験を欠席し、上野の松坂シネマで『二重生活』を観て過ごした[13]

 

********

 

なんと、すばらしい態度でありましょうか!

 

もう、アーティストとして、最強リスペクトいたします!!

 

 

彼は、1950年、芸術集団の「実験工房」に参加します。

 

 

 

そして、当然

周りはクリエイティブな人だらけになって、

メシアンの研究や、

テープ音楽などのミュージック・コンクレートなどに親しみます。

 

具体音を音楽の要素として取り入れるようになったり、

クセナキスのエレクトロ系や、

メシアンの甘さと不快なをくっつけたような事もやったり。と。

 

 

そして、映画音楽もやるようになりました。

 

1956年は、「狂った果実」

あの太陽族っていう若者の世代のバイブル?

 

石原慎太郎が書いて、裕次郎が主演したやつです。

 

 

 

そして

 

その後に製作した「弦楽のためのレクイレム」は、

1959年、たまたま来日していた、

ストラビンスキーが偶然、聞いて、ベタ褒め!!!

 

 

タケミツ!最高!!!

 

 

1960年ごろから日本の楽器と西洋の楽器をまぜるようになりました。

 

それから、映画音楽のギャリアが、さらに彼を後押し!

 

切腹(小林正樹)不良少年(羽仁進)砂の女、他人の顔(勅使河原宏)などなど。

このあたりは、どれを取っても、すばらしい映画ばかりですね。

 

 

世界のタケミツは、芸大に行かないで、映画を見てた。くらいなので、

やはり映像のセンシティビティが、むちゃくちゃあったんでしょうね。

 

 

 

 

そして、また、NHKのテレビの大河ドラマなどもやって、

日本の楽器、箏、尺八、や雅楽の楽器なども取り入れ、

そういうのをどんどん自分の作品の中に

とりこんでゆきました。

 

そして、1967年、日本の楽器をふんだんに取り込んだ、

「ノーベンバー・ステップス」を

ニューヨークフィルが演奏して、大成功です!!

 

歌もたくさん残してます。

 

今でもYouTube で、聞けますが、やはり日本人の心にウルウルきますねー。

 

 

では、一方で。。。。。

 

 

お隣の中国では、どんな事情になっていたのでしょうか?

 

もともと伝統的な音楽はありまして、ベルの音のような 

 

MarquisYiという古代の楽器

これは

12音階らしいです。

 

 

 

 

 

 

で、いきなり、20世紀ですが

この頃は、清王朝ですよね。

 

まだ西側の音楽の真似のようなものが多かった。

 

ロシアっぽいものや、ドビュッシーのようなハーモニーなど。

 

これを指摘した、西側の音楽家は、

「そっちが真似したんだろ!」って

言われたらしいです。苦笑

 

 

 

 

 

1949年、

毛沢東がパワーを握ってから、作曲家は苦境を迎えます。

 

それまでは西洋風のオーケストラや、オペラハウス、音楽学校などが

たくさんあったらしいのですが、

毛沢東の妻の江青が文化革命のお手伝いをするようになると、

あれこれ音楽についても文句を言うようになっていきました。

 

 

 

 

彼女はとくにベートーベンの#6のトロンボーンが嫌いだったらしいです。

でも、コープランドのレッドポニーは好きだった。

 

プロレタリア的に見て、ブルジョア趣味のアーティストは

 

「危ない分子」と言われて、

追放された。

 

 

私の趣味だからね!文句いわせないよ!

 

 

 

バレエとオペラはほとんど江青のテイストとなり、

文革時代の最大のオペラは

”レッド・デタッチメント・ウーマン”

 

 

 

 

シンプルでキッチュなブレンド、チャイコフスキーっぽい。

 

これはタケミツがやったように、

中国の昔の楽器を西洋にまぜたようなものでした。

 

 

 

 

このあたりって、女性に注目してるのが、

今っぽいちゃー今っぽいですがぁ〜。

 

 

 

そして、

 

毛沢東が1976年に亡くなり、2年たって、やっと音楽学校が再開しました。

 

この年から新しい才能が生まれます。

 

いわゆる

「中国のクラッシック音楽のユーウェーブ」のはじまりです。

 

 

タン・ドゥン 

ゾウ・ロング

チェン イー

他にも。。。ちょっと、読めなくてすみません。

Bright Sheng 

Guo Wenjing など。

 

 

文化革命の時代にまだ子供だった彼らは、伝統抜きで

ゼロからスタートしてゆきます。

 

タン・ドゥンは、1957年に生まれました。

 

 

 

田舎のフォークソングで育った。

そして地方の北京オペラ団でバイオリンを弾いていました。

 

中央の北京の音楽学院の入学試験の時は

なんと!モーツアルトも知らなかったそうです。

 

そして1980年代になってから、

ドビュッシーやブーレーズ、ケージを学んだそうですが、

子供の頃の強制労働の時の田舎の音楽を忘れてなかった。

 

 

そしてこのニューウェーブは皮肉な事に、皆、アメリカに行きます。

タン・ドゥンも1986年、ニューヨークへ。

そして、ミニマルあたりも自分のものに。。。

 

 

 

そして、本国へもどって、どんどん音楽の境界線はなくなってゆきます。

ちなみに、なんせ、中国は、チャイコフスキーで止まっていたんでね。汗

 

 

 

ただ、こうやっていくと、「クラッシック音楽」という定義が、、

かなり西洋の一方的なものだというのに気がつくでしょう。

少なくとも、あたくしは、そう思いました。

 

日本の雅楽や、ペルシャのメロディーとか、インド音楽、

アフリカのドラムもポリリズムなどが

ある意味で、クラッシックだし。。。

 

西洋が勝手にクラッシック音楽の定義を決めてる。。。

。。。って事ですよ!

 

どちらにしても現在は、巨大なマーケットが

こういう疑問を、撒き散らして、飲み込んでいってる様相ですけども。

 

 

演奏する人たちも指揮者も、世界中の人たちが集められます。

 

ヨーヨー・マのプロジェクトには、アメリカ、ヨーロッパ。

東アジア、セントラルアジア、中東、の人たちが集められました。

 

彼自身も両親は中国人ですが、パリ生まれで、ニューヨーク育ちですし。

 

 

 

こう考えてきますと、。。って、

ま、西洋人的なクラッシック音楽と言われた分野には、

ですけども。。。

 

昔の民族的なものを取り入れてきた、バルトークやヤナーチェク、

ストラビンスキーなどがおりましたが、

 

戦争のせいで、そういう民族性を全面に出すのが、タブーになり、、、

 

アバンギャルドが流行している時は

 

とくに、そういうのは古臭いと思われていました。

 

しかし、今はまた、その次の時代であります。。。。

 

「新しい形の市民の美徳としての民族性」が、

一つの塊となってゆくのでありましょう。

 

 

アルゼンチンの作曲家、

 

オズバリド・ゴリジョフ

 

 

彼は、元をたどれば、東欧とかロシア系のユダヤ人の子孫。

 

オペラと宗教的儀式の中間あたりあるような

 

「セントマーク・パッション」という曲

 

 

ラテンをモダンに仕上げた、アフリカナイズされたスパニッシュ

プラスアフロキューバンのドラムのソフトな叫び

 

ストラビンスキーのようでもあり、

ライヒのミニマルのようでもあり、

音色がさらさらのルキアーノ・ベリオのようでもある。

と。

 

クライマックスは突然、アラム語(昔のラテン語=イエスが使った言葉)になり、

ユダヤ人の朗唱になる。

 

しかも!!

 

これら全部、与えられたものを

演奏者は、これらをインプロでやるそうです。

 

 

わ~~~!!!

ようわからん~~です!!!

 

もう、ここまでいくと、

田舎っぺ島国の我々には、理解を超えております!!!

 

 

ま、ともかく今回は、

 

((( 西洋のクラッシック音楽が、どんどん広がって、混ざりまくってる!)))

 

と。

 

ま、そういう結論でいっか??

 

 

と、勝手に決めさせていただきまぁ〜〜〜す!

 

 

次回は、ミニマル音楽のその後、今回と真逆で、

せま~く、ニューヨークにスポットを絞らせていただきま~す。

 

読んでくださって、ありがとうございます!!