私が、もう1年以上もかかって、(苦笑)

必死でまとめているこの20世紀の音楽の歴史の本、

「ザ・レスト・イズ・ノイズ」に

今までなぜか、出てこなかった国。

 

それは、イギリスであります。

そして

 

今回、初めて出番がまわってきたイギリス人。

このベンジャミン・ブリテン氏で〜〜〜す。

おめでとうございま〜す!!

 

 

まちくだびれちゃったよー。

 

なぜ、ここで、彼の登場になるのか?

彼の事を読んでみて、オペラに無学な私でも、ちょっとわかりました。

 

なんか、独特なんです。

他とは混じってない。

「この流れがこうなりました。」じゃない。。

。。。。シンプルに語れない独特な世界!

 

ヨーロッパ大陸では、12音技法をつかうのか?使わないのか?

トーナルやるのか?やらないのか?ってので、もう大騒ぎ!!

だれがどっちなのか?右往左往していたそんな空気。

 

そんなん

まったく、読んでない人。。。。汗

 

 

はーー。?

 

悪く言えば、そんな時代の流れとはズレズレ!

よく言えば、そんなのポーンって飛び越えて、

どっちでも自由に、自分流に使いこなしたのです。

 

 

結果的には、ウィキには「新古典」って書いてましたけど。。。。

そんな分類なんかどうでもいいってところに位置している音楽家でありましょう。

 

彼はこう言いました。

 

 

作品をアイデアで組織化すると本当に作りたいものが、歪む。

 

自分の音楽は今の人を喜ばせるため。

のちの人達にのためにつくるのではない。

(後世に残すためではない)

 

つまり

 

私が思うに、こだわってるポイントが、形式ではなく、

「自分の世界を表現する」っていう事だったのでありましょう。

 

 

 

で、じゃあ、彼の世界ってどんな世界?

 

それをお話ししましょう。

 

自分のルーツを信じていた彼は、

生まれ育った近くの町に住み続けました。

それは、オールドバラという寒い風にさらされた、魚師の町で

河口のちかくで、泥がひろがり、決して綺麗なとこではなかったそうです。

 

こんなん。

あまり特徴のないような、パッとしないとこ。。。(失礼)

 

 

いきなり、それますけど、彼はこんな田舎町で

1948年、

自分の企画で、「オールドバラ音楽祭」ってのをはじめるんですよ。

 

まるで、ワーグナーのバイロイト音楽祭の小型版みたいな!

 

今でも続いています。

 

コレってすごいですよね?

なーんもなかったところに、いきなり音楽祭て!!笑

 

私が今住んでる(ロサンジェルスのシルバーレイクってとこなんですけども)

いきなり「今年からシルバーレイク音楽フェス、はじめまーす。」

って、アナウンスして 

 

(((( 私自身が毎年、トリをやる )))))

 

みたいな事ですよ!!爆笑

こんな行動力、見習いたいもんです!!

 

 

まあ、私とブリテンを比べてる時点で、もう激怒されそうですが、汗

言いたかったのは、

ブリテンがそのくらい、この町を大切にしたって事です!!

 

話もどします。

 

 

ブリテンは、1913年生まれです。

彼のファミリーはミドル・クラス。。。。とはいっても、

 

父親は歯医者で、母親はソプラノの歌手だったそうです。

 

 

この母親は自分の息子を

バッハ、ベートーベン、ブラームスの後に続く

「4番目のB 」にするべく

音楽教育をほどこしていた!

(すごいゴール!)

 

ミドルクラスの目標がコレって???

まず、お母さんが普通じゃないデス。苦笑

 

 

 

1930年、17歳でロンドンの音楽学校にはいり、

いろいろなヨーロッパの音楽にふれました。

その時にベルグのファンになり、ウィーンに行き、弟子入りしたかったけど、

ベルグは、道徳的にふしだらという評判で、断念。

(おそらくお母さんが許してくれなかったんでしょうね。)

 

で、卒業して、就職するのですが、これが、郵便局の宣伝映像部で、

コマーシャルのために撮影された映像に音楽をつける仕事でした。

 

これが意外に奥の深い仕事内容で、

「郵便」といえば、ただ切手を売るだけじゃない、

いろいろと掘り下げる価値のあるテーマ。

 

なかなかクリエイティブなスタッフが集まったみたいです。

 

しばらく続けた事で、どんな主題でも音楽がかけるようになり、

かなりのエクササイズになりました。

いってみれば、ヴァイマル共和制の「実用音楽」ですね!

 

この頃のブリテンですが、

ストラビンスキー、ベルク、ショスタコーヴィチなどの影響を

かなり受けていたそうです。

 

さて、その頃、若い才能ある詩人W.H.オーデンとも知り合って、

男同士の親友?になります。

 

 

 

彼ものちに有名になりますよ。翻訳もされてますよ。

 

 

20世紀の作曲家はゲイが多いですが、バレエリュス周りは別として、

カミングアウトしてた人は少ないです。

そういう時代でしたからね。

 

ブリテンも今から見たら、もうゲイゲイしてるんですが、

その当時は、カミングアウトしてません。

 

 

でも、彼の心は、少年のイメージから抜け出れなかったみたいで、

 

大人になってからも、彼の世界は少年の頃のまま。

40歳になっても、

「少年日記」というのを書きつづけていたようです。

 

なもんで、代表的なオペラは少年がでてくるのが多いです。

 

 

 

1937年、24歳。

生涯のパートナー、ピーター・ペアーズ(テノールの歌手)と

知り合うのですが、

イギリスは1966年まで、男同士の性行為は犯罪でしたので、

そういう意味では、今のようにオープンには、できませんでした。

 

 

ブリテンとペアーズの関係は、一生続くことになるのですが、

 

ブリテンは当時、他にも男のお友達がたくさん、いたみたいで、

いつも自分をちやほやしてくれる少年達にとりかこまれて、

いたそうです。

 

 

 

そして、自分を失望させるような人はどんどん切ってゆき

自分自身を囲った世界をつくりあげてゆきました。

 

、、、というと、なんか意地悪な人のイメージですが、

彼は優しくてチャーミングな人柄だったみたいです。

 

 

 

 

 

1939年、そういうごちゃごちゃした人間関係(男の)をさけるため

戦争のゴタゴタをさけるため、

ベアーズといっしょにアメリカに引っ越します。

 

そしてふたりで、アメリカの新しい自由な空気の中に飛び込みます。

 

コープランドとも知り合って、交友します。

この頃はバレエ「ビリーザキッド」で成功して、イケイケの頃ですね。

 

 

 

 

そして、ブルックリンの橋の見えるロフトに住むことになりました。

 

ルームメイトは、前述の詩人のオーデン、そして、ポール・ボールズや

 

 

 

トーマスマンの息子のゴーロ。

 

 

 

そこに出入りするのは、サルバドール・ダリ

上流階級階級専門のストリッパーのジプシー・ローズ・リー

 

 

 

    

 

前回主演のバーンスタイン

 

 

 

などなど

ものすごいカラフルな人々が、そこに出入りしていています。

 

こんなオープンで、クレイジーなアメリカならではの環境!!

ブリテンは、そんな刺激的な環境で、感性を磨いて行きました。

 

そして数々のブロードウェイのショーを見て、

そのドラマチックなトリックも学びます。

 

 

なんか、メンズ・クラブのモデル?みたいですね?笑

 

そして、2年半経ちました。

 

アメリカという自分の国から離れた場所で生活したことで、

ブリテンは、逆に

自分がイギリス人である事を逆に強く意識するようになります。

 

そして、外の世界ではなく、彼の創造性は、自身の奥の方へと進みます。

 

 

アメリカからイギリスにもどって、ペアーズのために書いた「セレナード」で

ドラマチックな言葉を得て、

シンプルな表現で、はかりしれない深さを描く力を身につけました。

 

ちなみに、ブリテンの作品のほとんどが

ペアーズが演じる事が前提になってます。

カップルですからお互いにインスパイアしながら

作品ができてゆくのでしょうね。

 

 

 

そしてついに、1945年 ブリテン35歳。

 

イギリス・オペラの歴史に残る

「ピーター・グライムス」を完成!!

 

 

 

 

 

このお話は、もともと少年を次々に殺す悪漢漁師の話なのですが、

それをブリテンとピアーズは作り直して、

社会のせいで自分の表現ができなくなった「犠牲者」という話にします。

 

 

今ではこれは社会から追放され、

アウトキャストになった「ゲイの寓話」とも言われますが、

制作過程において、ピアーズが少年愛やホモセクシャルなところは

かなり取り除いたそうです。

 

全体的には、19世紀の伝統的なオペラではあるのですが、

フォークソング、ボードビル、ミュージカルをギリギリまで取り入れ、

 

20世紀の社会のぐちゃぐちゃ感を爆発!

つまり全てが多義的でどうにでもとれるような内容であった!

 

 

これが、大成功!!

 

 

アメリカでの公演も果たし、ブリテンはイギリスを代表する音楽家となりました。

 

おめでとう!

 

その後、冷戦時代にはいりますが、彼は平和主義で、

ホモセクシュアルは愛国心がないと思われるなど

やりにくい事もありましたが、次々に作品を作ります。

 

1951年「ビーリー・バッド」(男の3角関係の話)

そして、1954年、「ネジの回転」は19世紀のホラーで、

ホモの男と女家庭教師と、子供の幽霊の話。

 

実際にブリテンはこの時の少年役に惚れ込んだらしいです。

が。純潔な関係ですよ。

 

これは暗く、メインは12音階だが、

メロディーもその外側にチラチラ出てくるレシピー。

 

グライムス、ビーリー・バッドも少年、もしくは若い男の死がでてきて、

もう、ゲイの世界が満載!

 

 

「ネジの回転は」暗いし、かなりリスキーで不穏であったが。。。。

 

その次の1960年「真夏の夜の夢」では、それをぬぐい去ります!

 

シェイクスピア自身の言葉に挑戦。そのまま使います。

お得意の無邪気で罪のない子供の遊びのようなラッピングです。

 

スーパーナチュラルが自然でない事と入れ替わり、徐々に侵入してくる。

妖精の眠りの時には12音階になったり。

これまた自由にこだわりなく作曲。

 

 

そしてその次の作品は1962年に「戦争レクイレム」

管弦楽付きの合唱曲です。

 

オフィシャルな戦争反対の作品で、これもまた、世界中で大成功となりました。

 

 

その頃、前後して、ブリテンはショスタコーヴィチと知り合います。

もともと、ブリテンはショスタコのファンでした。

とくにレディ・マクベス。

 

冷戦中でもポイント的には行き来ができていたので、

1965年にアルメニアのコンポーザー・コロニーを訪ねたりして親しくなります。

ショスタコも「戦争レクイレム」を褒めたそうですよ。

 

 

 

で、ショスタコもブリテンにインスパイアされ、

政治的なものを取り入れて、

アンチ・スターリンの詩を自分の楽曲に使ったりするようになります。

 

69年のシンフォニーはタイトルのページに

「真夏の夜の夢」の最初のように。。。と載せたりとか。

実際の作品は、ブリテンとは関係ない「死」のテーマなのですが。。。。

 

ふたりはお互いに孤立したアーティスト同士として、

注目し、共感しあってゆくようになりました。

 

 

ある時、ブリテンはショスタコを

オールドバラの自分の家に招いたそうです。

 

 

 

ショスタコはすでに体調をくずしていたにもかかわらず、

ブリテンの招待に応じて、彼の家に行きました。

そしてブリテンは自分の仕事場にある制作中の楽譜を

ショスタコに見てもらったそうです。

 

ブリテンはショスタコをそこに置いて、

外に出て、ひたすら待ちました。2時間、が経過。。。。

 

そして、ついに彼が出てきた。。。そして、

なぞめいて、ただ。。。。ほほえんだ。。。。そうです。

 

つまり「これ、って、次のオペラだよね?」と、ズバリ!!

 

 

え?なんでバレちゃったんだろ?

 

 

それが、ブリテンの遺作となった「ベニスに死す」のことです。

 

これは、ネットにあったので、見てみましたよ。

英語のオペラっていうが、私のみたいな初心者には、

かなり違和感があったのですが、トライしてみました。

(ま、どちらにしてもイタリア語でもわからんし。。。汗)

 

映画と比較してみると、

ビスコンティのは、曲はマーラーだし、なんか悶々とした重い、薄暗い、、、

退廃的で、どよーーーーんってくるかんじなんですが、

 

 

それに比べたら、ブリテンのこのオペラは

軽いんだか重いんだか、わからない、でも心にひっかかかるっていうか。

 

 

中年の孤独感、作品ができないアーティストのストレス、

老化、病気が忍び寄ってくる恐怖感。

それが、なんか時折、コミカルな部分もあったりして、

表現に立体感があるんです。

 

タジオはオペラではダンサーなので、ダンスのシーンがあり、

そういう意味でも映画に比べると動的なのですが 

 

 

 

映画とは別物なかんじで、とても素晴らしかったです。

プロダクションのレベルの高さにも感激しました。

2020年の秋までの期間限定のリンクですが、

興味があったら、見てみてください。

 

https://www.youtube.com/watch?v=Lak8a-Yti5I

 

 

 

 

「ベニスに死す」の前後にブリテンは心臓を悪くしました。

そして、このオペラのためにその手術まで延期して集中します。

 

1973年にこのオペラができます。

 

こちらは、オリジナルの時。もちろんペアーズがアウシェンバッハの役。

 

 

 

これは原作のトーマス・マンの実際あった話が、元になっていますが、

ブリテンやショスタコも

この主人公のアウシェンバッハと同じ運命になります。

 

もともと体調のよくなかったショスタコーヴィチは、

この2年後、68歳、肺ガンでなくなり、

次の年にブリテンも、なんと、マーラーと同じ病気!!で

63歳で亡くなりました。

 

ブリテンは自分の中の世界をとことん追求して、

独特の世界をつくりました。

彼は自分のルーツ、オールドバラに住み続け、

音楽祭を企画して、自分の作品をそこで発表して、

周りを少年たちでいっぱいにして、

クリエイティブなペアーズもずっとそばにいて、

いっしょに作品を作り出し、

 

 

もうひたすら自分の世界を温室でぐんぐん育ててゆき、

イギリス人としての独特のオペラの世界を確立しました。

 

 

これは、政治に奔放されたショスタコとは正反対に見えるけれど、

自分にしかわからない(当時は)暗号みたいなもの?を作って

作品に織り込んだりした、独特な方法で、

密閉された世界で自分の創造性を育てていった。

 

同じヨーロッパなのに、孤独で、浮いてたふたり。。。。

 

そういえば、ブリテンの少年の無邪気で罪のない、ユーモアっぽいところ、

ショスタコーヴィッチも、あからさまに表面には出しませんが、

なんか、ニヤってしちゃうところ、ありますね。

 

 

 

自分のイニシャル DSCH を曲の主題にもってきたり、

セルフカバーのオンパレードをやったりなど

人生の後半は、思いっきり自分を表現してますし。。。。苦笑

 

これもブリテンの影響?だったのかも。

 

 

おふたりとも〜〜

天国で自由にやりたいこと!!やっちゃってくださ~い!!

 

 

今回はむちゃくちゃ長くなっちゃいました〜〜〜。

最後まで読んでくださって、感謝いたします!

 

では。また。