戦後の急進派のもう一人の重要人物は

パンパカパーーーーーーん!!

 

ジョン・ケージ!!!です。

 

 

 

 

 

ケージと言っても。

 

 

 

ニコラス・ケージとは親戚でもなんでもないです。

 

 

 

 

灰野・ケージさんとも親戚でもなんでもないです。

 

 

 

 

 

ざ・ジョン・ケージ様です。

 

 

お間違えのないよう。。。。

 

 

彼は

もう、知れば知るほど、すごいな~~~って、もう感激しまくりですね!

 

なんと申しますか、「椎茸ダシ」っていうか。

 

知れば知るほど。。。つまり

煮れば煮るほど、どんどん濃くなって、味わいがましている今日この頃。。。。。

本人もマッシュルームの研究家でもありましたので、

この表現は、正しいかと思います。

 

 

 

 

 

前回のブーレーズはフランス人。

 

 

 

 

 

 

ケージはアメリカ人です。

 

 

 

 

なぜ、前回のフランスのブーレーズから、

急に今回のアメリカのケージになったかというと、

戦後の急進的な再構築をひっぱったのがこの二人。

 

といっても、

いっしょになっったのではなく、それぞれのやり方ですが、

でも実は、接点はなくもないんです。

 

1949年にふたりはパリで会って、少しの間は友達でした。

少しだけですが。。。苦笑

 

 

そのあたりをご説明する前に。。。。

今回は、それ以前の戦後まで、

つまり1940年代までのケージをまとめる事にしました。

 

もう、これだけも、ダシが、かなり濃いんで。。。

 

 

 

 ケージは1912年生まれです。

 

 

 

 

 

生まれはロサンジェルスで、お父さんは潜水艦関係の発明家。

つまり、理系。。。。。

 

 

なので、彼もなんとなく物理学者のようなルックス。

髪の毛も短く、Tシャツじゃなくて、シャツ派。

 

子供の頃、ピアノを習っていたそうです。

でもいわゆる普通のクラッシック音楽には興味はなく、

新しいものが好きだった。

 

 

 

そして。

 

 

1930年、18歳です。パリに建築を勉強しに留学。

この時点では建築家になろうとしたのでしょうか? 

お父さん、理系だし。

 

 

 

 

結局は、これは1年間くらいですが、その時に、ベルリンに行くんです。

 

 

 

 

そして、あの!ヴァイマル環境の洗礼!!を受けますよ。

自由で活気の溢れた、なんでもアリの頃。。。。

多感なティーンエイジャー。

影響されないワケがないです!

 

 

実用音楽のヒンデミットが

レコードプレイヤーで、コンサートをやってたり、

スポークン・ミュージックなどを目のあたりにします。

 

 

僕、ラップの先駆け?じゃない?


 

 

 

そして、すぐにアメリカにもどり、

音楽の勉強を本格的にはじめる。これが、19歳のときですね。

 

 

 

 

 

そして、それからは。。。。

もう、

なんか全てが用意されてたかのように、

どんどん運命が展開してゆきます。

 

まず。

あの、シェーンベルグ様がアメリカ西海岸にいます!!!

 

 

 

 

1934年から1937年まで、彼から音楽を直々に!!学びます。

以下、「サイレンス」水声社というのからの、抜粋からです。

(このネタ本には載ってないです)

 

 

音楽の師であるシェーンベルクに弟子入りする時の事。

 

 

「ケージ、君は、一生を音楽に捧げる気があるかい?」

 

 

 

 

 

ケージは「はい!!」

 

 

そして

シェーンベルクのもとで2年間音楽を学んだ。

 

その後、先生から、再度の質問がゲージに。。。。

 

 

 

ケージ君。ちょっと聞いとくよ。

 

 

音楽を書くためには、和声の感覚をもたなければならないんだけど??

その辺はどう?

 

 

 

 

えっ〜〜〜〜〜??

 

和声の感覚〜???  タラ~~~

 

自分が和声の感覚を全くもっていないことをシェーンベルクに告白

 

 

そしたら、

 

う〜〜ん。

それは君にとって音楽を続けることの障害になるね。

ちょうど通り抜けることのできない壁につきあたるようなものだ。。。

 

 

 

 

だったら・・・・

 

 

「それなら、私は壁に頭を打ち続けることに一生を捧げます!!!」

 

 

 

と。。。。言った。。。。。

 

 

 

ひぇ~~、、、、この答え!!鳥肌ものですね。。。笑

 

アーティストのお手本ですよ!!!!!(しみじみ)

 

それを最後まで実行した人生、素晴らしい!!

 

 

 

 

 

話もどります。

 

彼は根本的にはクラシック音楽の伝統の否定。

 

そして、ヴァイマルの時の、ヒンデミットなどが

レコードプレイヤーを使った音楽を聴いてるし。

フォーカスのポイントは

そういう電気楽器の可能性、ノイズ、音列の処理、リズム処理。

と。。。。

 

そういう新しい考えがぐるぐる彼の頭をめぐります。

 

 

1940年に、プリペイド・ピアノを作るんですが。

プリペイド・ピアノというのは、

ネジとかなんかいろんなものをピアノに挟んで、加工する。

なんかミュートしたような音になります。

こんなかんじですね。

 

 

 

楽譜では、音列処理、リズム処理、ときて、そして、

今度は、楽器自体も処理ですわ!!

 

処理音楽!(これ、今、私が作りました。苦笑)

 

処理=オペレイションと考えれば、すべて、のちまで納得ですね。

 

 

 

 

 

 

ケージのこの頃の目標は

こちらも美術界の大大スターの「マルセル・デュシャン」

 

 

 

 

便器を作品として、出品した、こちらは美術界の巨大イノベーターであります。

 

 

当時の風刺画。爆笑

 

 

 

こちらは有名な、モナリザにヒゲをつけた。。。

 

 

 

 

ケージも、だったら。。。。と。

 

ショスタコビッチや、ベードーベンの曲を処理して作品を作ってます。

 

こちらは「有名クラッシック楽曲処理プロジェクト」!

 

 

 

 

さて。

 

1942年、ニューヨークに引っ越します。

マンハッタンです。

1944年、マース・カニングハムとのプロジェクト

(のちにずっとパートナーとなる)

 

 

 

 

彼とのダンス・コラボ。

 

 

 

美術からのインスパイアや、ダンサーとのコラボなど、

周りはクリエイティブな匂いがプンプンですね。

 

そして。

さらに。

 

彼にものすごく影響を与える事になる出来事。

 

1945年から2年間、コロンビア大学で、鈴木大拙から禅について学ぶ!!

(直接ですよ!)

 

わしがケージ君にゼンちゅーもんを教えたよ。

 

 

 

 

シェーンベルグ(直接)!!!!!

 

鈴木大拙(直接)!!!!!!!!

 

もう、この話題だけでも、本かなんか書いても、一生食べてゆけますよー。苦笑

 

 

この写真、ケージが立膝なとこが、かわいいデス。

 

 

そんなわけで、当然ですが、

どんどん西洋のクラッシック音楽の伝統から離れてゆきますね。

そして東洋思想から多大な影響を受け、

それが作品にも表出してきます。

 

 

さて。そんなこんなで。

 

36歳のときにマース・カニングハムといっしょにパリに行きます。

 

そして、ピエール・ブーレーズにあいました。

それまでにも

ブーレーズは、プリペイド・ピアノの作品を聴き、

ケージに手紙を書いたりしてて、好意的でした。

(この時点では。。。。。)

 

さて、それから、どうなったか?

次回はこれから先のケージとブーレーズとを比較してを見てゆきます。

 

では。