いきなりですがーーーー。

 

今回の悪者はこの人です!

毎回、悪者ばっかり登場しますが〜。。。汗

 

いかにも、口うるさげ!!

 

 

 

彼の名前はアンドレ!

 

アンドレ・ジダーノフ!!!

 

 

 

 

さてさて、前回からお話は続きます。

 

1945年、第二次世界対戦が終了しました。

その次の年46年に、ショスタコービチはスターリンから

豪華なアパートを与えらたんです~~!

 

 

そうです。

ショスタコーヴィチはセレブです!!

 

うほうほ。

 

 

部屋が5つもあり、ピアノが3っつもあったそうです。

社会主義でこの待遇ですからね!!

 

他にもレニングラードの音楽学校でおしえたり、

スターリン賞は選ぶ側に回ったりと、

ショスタコのソ連の地位は、かなり揺るぎないものとなりました。

 

ところが、まあ一難去って、また一難!

 

スターリンから気に入られたと思ったら、

逆に、そういうのを嫉妬する人たちが現れる。

 

つまり、そういうエリートなアーティストが優遇されるのを良しとしない

コンポーザー・ユニオン!というのが、

 

我々、社会主義者は、セレブ待遇なんて、許さん~~~!!

 

 

 

 

そして、

アーティストの作品にあれこれ、文句を言いだします。

音楽だけではなく、文学、芸術にもです。

 

音楽は、まずショスタコの8番にケチがついた。

ベートーベンの第9のようなのを期待されていたのに、

メランコリーな風刺的な作品を作った。と。

そして、

プロコフィエフ6番も、評判が悪い。

 

もうソ連愛国者まんまみたいな人

当時かなり人気があった

ヴァノ・ムラデリのオペラ「偉大なる友情」

でさえ、

 

この中に出てくるカフカス地方のダンスが違う!と、文句を言われた。

 

 

「形式主義的な作品」は全部ダメ。

 

形式主義とは何かというと、狭い意味で、ソ連的には、

大衆にはわかりにくくて、

国家への賞賛がない作品の事です。

 

そういう細かい苦情が

だんだんと広がり、ついには、共産党中央部が乗り出してきて、

とりしきるようになります。

 

 

これを影でいろいろコントロールしていたのが、

今回はスターリンじゃなくて、

共産党中央部、副司令官アンドレ・ジダーノフです。

左。

 

 

 

 

本人もピアノが弾けて、ニックネームは「ピアニスト!」

 

 

 

「ぼかぁ、ピアノも弾けるんだぜ〜!よかったら、ピアノ君って読んでよ。」

 

 

スターリンの時もそうでしたが、変に音楽好きだったりすると、

逆に文句いいたくなるのでしょうねー。

 

 

 

そして、もう一人のこの文化粛清のお目付役として

任命されて、取り仕切ったのは、

 

ティホン・フレニンコフ

(この名前、読みにくいし、覚えにくいし、もう。。。。汗)

 

 

 

 

ティホンと呼びましょう!

 

1948年にソ連作家同盟のトップに任命された、

つまりジダーノフの部下みたいな関係です。

 

ティホンも実は、音楽家なんですよ。

 

 

いろいろオペラや協奏曲を書いています。

 

 

なので、ショスタコもプロコフィエフも評価してるんです。

多分、大好きだったとおもいます。(私が思うに)

 

だからこそ。。。。??

文句を言いたくなった。

 

 

 

 

 

おそらく彼は音楽よりも政治家の才能の方が、勝っていたので、

このジダーノフの批判でこういう役回りになってしまった。

というので、

 

「評判が、すこぶる悪い」らしいです。

(ここは日本語のウィキより)
 

 

話がそれましたが、

そのティホンは、3日間の会議を開きます。

そして、

 

 

 

「このところ音楽家って、こんな形式主義で、ええのんか?」

 

と、いう議題をぶちかました。

 

 

 

 

 

呼び出しをくらって

会議の会場に現れたプロコフィエフは、

 

あからさまに、ジダーノフを見下げていたそうです。

 

噂では、その会議で、なんとプロコフィエフは。。。

 

 

 

寝てた!!!苦笑

 

ぽにょ〜〜〜〜〜ん。

 

 

 

この本によりますと、この噂は大げさかもしれませんが、

どちらにしても、

彼は弁解するでもなく謝ったりもするわけでもなかったのは

事実らしいです。

 

 

そして、同じく呼び出しをくらった、ショスタコの態度は

 

正反対!!

 

「どうなの?」と問われて、

むちゃくちゃ、ペコペコしてたらしい。

 

 

「そうですねー。言われてみたら、そうかもなー。。。。」

と。

 

 

 

「自分の作品には欠点があったみたいです。」と認めたそうです。

 

アーティストとしての、プライド0%!!!

 

ショスタコはあの、「プラウダ批判」の記憶が蘇ってきたのでしょう。

だって、当時、彼の周りの人たちが全員、いなくなりましたから。

。。。殺されたか、流刑。

なので、そういう態度は、理解できるっちゃーできますが。

 

 

その会議のその一ヶ月後に

じゃーーん!

悪者、ティホンは法令を出しますよ!

 

 

 

42作品を禁止!!

もうこれらを演奏してはならん!と。

 

そのリストを見ると、ショスタコのシンフォニー 6番、8番、9番は禁止!

プロコフィエフの6番、8番、ソナタは禁止!!

 

それまでの20世紀の音楽作品の半分くらいは禁止された。

私が個人的に想像するに、

かなりのロシアン・アバンギャルドの作品でありましょう。

 

 

この発表の時は、

プロコフィエフは病気で、欠席したものの、

さすがに今回は、謝罪の手紙を書いたそうです。

しかし、これは仮病だとも疑われる。。。。

 

前回の態度で、共産党からは印象が悪かったにちがいないですね。

でも実際は、1946年くらいから体調をくずし、一時的な言語障害をおこします。

 

 

プロコフィエフに、悪い事は続きます。

 

彼の書いていた「戦争と平和」は46年にはパート1が初演しましたが、

これは禁止されなかった!!!

そしてパート2はドレスリハーサルまで、進んでいた段階だったのに、

歴史的な間違いが発覚して、こちらの事情で上演できなくなってしまいます。

 

しかし、これもプロコフィエフは「成功のための失敗」だと言ってる。

どこまでも楽観的(に見せてる?)プロコフィエフでありますが、、、、。

 

まだ、まだ、不運は続きます。

 

いいかんじでコラボしていた、

映画監督の巨匠、セルゲイ・エイゼンシュテインが、

突然、心臓麻痺でなくなります。

 

 

そして、本人の病気も悪化。

 

それから、最初のワイフがスパイ容疑でつかまり8年の流刑!!!!

 

 

 

(これはに2番目のワイフの差し金だという説もあり)

 

 

 

とにもかくにも、泣きっ面に蜂状態になります。

 

 

一方ショスタコは、以前の恐ろしい体験があったので、

ジダーノフ批判は、不気味なほど素直にこの批判にはをうけいれた。

そして、

国民的音楽家のプライドなんて全くない、ひたすらな謝りの手紙を書きます。

 

「自分はフォーク・アートや人々の偉大な魂の表現などが足りなかった、

これから、ソビエトのアーティストとして、

人々から 愛されるように努力する」

 

と、歯の浮くような内容の手紙。苦笑

 

 

 

 

手紙だけならまだしも。。。。

彼は、悲しいかな!!!

演説台にたって、演説までやらかしちゃう!!

 

 

そういうおとなしく服従してしまったショスタコをみて、

この粛清に反感を感じていた他のアーティストや作家は、

かなりガッカリ。。。。

 

なにも、演台に立って、演説までしなくとも、、、、

黙って何も言わない「勇気」はなかったのか?と。失望。。。

 

実際に本人はあとで、かなり落ち込んで、

「自分は寄生したパペット」だと同僚にこぼしたらしいです。

 

しかし。。。。

また、ここでもオタクの喜ぶショスタコの仕掛けが登場。

 

そうです。暗号のコード!!

 

 

ジダーノフ批判の最中に作ってた曲は、

はじめてのバイオリン・コンチェルトなのですが、

D, Eflat、 C 、B のモチーフは

ドイツ語で自分の名前。

それをちりばめて、書き続けます。

実はこれは、ジダーノフ批判の以前から書いていたのですが、

この一件があっても、別にスコアを書き換える気配もなかったそうです。

つまり、

表面上だけ、実はショスタコは、従順なふりをしていただけだった!

 

 

秘密のコード(自分の名前)を散りばめることで、

ショスタコは精神的に創作活動を続けることができたのかも、、、、。

 

 

 

そして、1953年、ついにスターリンは死にます。

すべての作曲家はいろいろな思いを巡らせたにちがいありません。

 

周りからみたら、もうショスタコは、変にポジティブになり

DSCHのモチーフばかりヤケクソに使っていた。

なんか表面的には呆れるほど、調子がよくみえた。。。

 

そんな彼の事を、のちに音楽学者はこう言ってます。

 

あまりに恐怖で自分を押さえつけたために

鏡の前でじっと自分を見つめ続けるうちに、

自分の名前が他人のように感じられて、

疎外感と反感で呼び続けるようになったのでは?と。

しかし、

自分がパペットだとわかってるだけでもよかった。。。。

と。

感情を表に出さないショスタコは

秘密なところで、自分の名前のコードを書きまくって、

ひたすらストレスを発散してた。。。

 

 

 

 

 

 

スターリンが死んだ時は、モスクワは大混乱で、

 

 

 

人が大勢繰り出して、ぐっちゃぐちゃ、死人まで出たそうです。

 

そして同じ日に。。。

 

偶然ですが、プロコフィエフも亡くなっていたのです。

脳出血だったそうです。

こちらは5日間発表されなかったそうです。

しかもお葬式に出席した人はたったの30人!!

 

あまりにも少ない。。。。

 

ベートーベン・カルテットが、やってきて、

チャイコフスキーを演奏したそうです。

プロコフィエフはチャイコフスキーが大嫌いだっただったのに。。。。

 

そしてその楽団は、お葬式での仕事を終えると、大衆の中に消えて、

スターリンのお葬式でも同じ曲を弾いた。。

 

この大騒ぎで、霊柩車はプロコフィエフの家の付近は禁止されていたので、

プロコフィエフの棺桶はお葬式の参加者の手で運ばれた。

 

モスクワの人や戦車やなんやらかんやらがごちゃごちゃしてる中をぬって

誰もいない間反対の方向に

誰もいないストリートへと運ばれた。。。。。。

 

淋しい最後だったんですね。

 

ショスタコは悲しんだ。。。。

同じ世代に戦った、文字通り戦友であり、ライバルですからね。

 

 

 

 

ジダーノフ批判以降も、プロコフィエフの芸術的才能には、

いつもエールを送っていました。

 

「すばらしいリズムの叙情的パワー!自分らしさの探求!!」と。

 

 

亡くなる前の1952年の10月、プロコフィエフの7番を初演した時、

ショスタコはめずらしく直接、彼に手紙を書きました。

 

 

100年は生きよう!そして作り続けよう!と。

 

 

しかし

その、5ヶ月後、プロコフィエフは無くなりました。

 

 

 

ショスタコの顔は、あの「無表情」で、

 

その横に立っていたそうです。。。。。

 

 

 

 

なんという人生でしょうか!

 

 

なんか、なんとも言えない、、、、、ただ虚しいですね。。。。。涙

淋しい気持ちになっちゃいますね。。。。。。号泣

 

 

 

 

でも、こんなに長々とこのソ連編を読んでいただいて、

本当にありがとうございます!!

 

 

 

次回はアメリカにうつります。元気をとりもどして、また始めます。

よろしくお願いします!