最澄を知る33 延暦寺横川エリア②角(つの)大師の四季講堂
四季講堂(元三大師堂)
慈恵大師(良源)(元三大師)の住居跡と伝えられる元三大師堂は、
村上天皇の勅命によって四季に法華経が論義されたことから四季講堂とも呼ばれています。
天台宗、中興の祖、元三大師(がんざんだいし)~慈恵大師 良源の住居跡です。
12歳で比叡山に入り、西塔の理仙大徳が師匠でした。17歳で受戒して、55歳で天台座主になりました。
比叡山の伽藍の修復、天台教学の確立、規律の維持と僧兵暴徒化を抑制したので、天皇家や摂関家の信頼を篤く受けました。
良源さんの別名が、「角大師(つのたいし)」、「豆大師」、「降魔大師(ごうまたいし)」法力が強くカリスマ的存在の僧侶だったそうです。
如意輪観音様、またはお不動様の化身とも言われていました。
若いころはとても美男子で、内裏に参内すると、女官が騒いだとか。
角大師札のこと
ここでは、角大師という奇妙な疫病よけ、魔除け札が授与されます。
これには、こんな言い伝えがあります。
良源が73歳の時に、疫病が流行って、人々は大変苦しんでいました。
良源はまず、疫病神を小指から体に入れて、疫病を実体験したあと、法力で退散させました。
そして、民衆をこの疫病から救うために、良源は大きな鏡に自分の姿をうつし座禅に入ります。
すると鏡には、良源の姿が、みるみるうちに骨ばかりの鬼の姿に。
その姿を弟子のひとりに書き写させ、絵を版木に刻みお札に刷って配りました。
このお札は非常に強力で、護符を戸口に貼った家は、疫病はもとより、一切の災厄にかからなくなったと言われています。
しかし、翌年74歳で正月の3日に亡くなっています。
この護符を作るのに、法力を使い果たしたのでしょうか。(なんだか、ワクチンの作り方のようですね。)
「豆大師」という名前は、小さい大師を33体、観音様の数だけ印刷したお札があることからつけられています。
おみくじ発祥の地
ここは、おみくじ発祥の地とも言われています。
おみくじには元三大師(がんざんだいし)良源が、観音様から授かったという100の言葉が書かれていて、悩みを相談に来た人たちに、そのお札を引いて、アドバイスをされていたということです。
しかし、それは時代が下ると忘れ去られていました。
再びそれが世にでたのは、江戸時代の初め、徳川家に仕える天海大師が元三大師様の夢のお告げにより、信州にある戸隠(とがくし)神社で偈文(観音様のお言葉)百枚を発見されたことに始まります。
これが「元三大師百籤(ひゃくせん)」となり、番号と五言四句の偈文により、的確な指針を得られたことで広まっていきます。
次第に天台宗以外でも使われるようになり、現在のお寺や神社で引くおみくじは、元三大師様の偈文百枚がもとになっていると言われています。
四季堂のおみくじは予約が必要です。
昔からの形を、今も踏襲しています。
(僧侶による今でいう、カウンセリングに近いものだったようです)
相談したい悩みを紙に詳しく書いて僧侶の方と面談し、おみくじを引いた方が良いかどうか判断されるとのこと。
引くと決まればお経を唱え、引いたおみくじの意味と進むべき道を
解説いただくそうです。
(おみくじの問い合わせ:077-578-3683 8:00~16:00頃)
元三大師御廟(がんさんだいしみみょう)
元三大師堂(四季講堂)の裏手の奥に “元三大師御廟”があります。
この元三大師の墓所の奥は、切り立った崖で、ここから先には何もありませんし、草むした静かな墓所です。
が、ここは、比叡山にとっても京の都にとっても、非常に重要な意味をもつ場所です。
ここは、京都から見ると北東、この御廟は比叡山の最果て、京都の鬼門比叡山の、そのまた鬼門に当たる横川の中で、鬼門中の鬼門であり、魔なるものを封じる最前線の場所なのです。
良源はこの地に葬られることを望み、また遺言として墓所は荒れるに任せるように言ったといいます。
彼は自分が葬られる場所がどのような意味を持つ場所かを理解し、そしてそこに葬られる自分の役目を全うすることを誓いました。
それは自らを魔なるものとし、魔をもって魔を抑えることを意味する過酷なものです。
死してのちも、延々と人々を守り続ける強固な意志がそこにあります。
これもまた、一隅を照らす魂の形です。
私たちは、こうしてたくさんの人たちの思いに守られているのですね。