最澄を知る29 延暦寺西塔エリア
この地域は、第2世天台座主、寂光大師円澄によって開かれました。
円澄さんは、、どんな人でしょうか?(画像が残っていません~)
平安前期の僧侶で、武蔵(むさし)埼玉の出身で、最初は道忠という名僧に師事しました。
師匠の道忠は、広く人々のために仏法を説いて民衆を救済し、菩薩と尊ばれ、鑑真の弟子の中で「持戒第一」とされた方でした。
↓ (道忠)
有名な鑑真さんは失明したにもかかわらず6度目の渡航に成功して来日し、奈良東大寺で戒律を初めて日本の僧侶に授けられた唐の高僧です。↓(鑑真)
師匠の道忠は、最澄とも深い法縁を持たれた方でした。
最初の頃、、比叡山にはまだ経典や仏教論書が充分備わっておりませんでしたが、道忠は、最澄の依頼を受けて、2.000余巻の経疏類を書写して贈りました。
道忠は、書写が届いた翌年に、最澄に弟子入りしています。
最澄はこれを大変喜び、ご自分の名の一字の「澄」をとって「円澄」という名を与えました。
円澄以後、道忠の弟子が最澄のもとにやってきました。
比叡山に入山した円澄は、厳しい修行に励み、100人の僧侶とともに、最澄から菩薩戒を受けました。
その翌年、最澄が始められた、長期間の『法華経』講義では、第一巻の講義を最澄が講義して、第二巻の講義を円澄が担当するように言われています。
円澄さんは、、どんな人でしょうか?(画像が残っていません~)
平安前期の僧侶で、武蔵(むさし)埼玉の出身で、最初は道忠という名僧に師事しました。
師匠の道忠は、広く人々のために仏法を説いて民衆を救済し、菩薩と尊ばれ、鑑真の弟子の中で「持戒第一」とされた方でした。
↓ (道忠)
有名な鑑真さんは失明したにもかかわらず6度目の渡航に成功して来日し、奈良東大寺で戒律を初めて日本の僧侶に授けられた唐の高僧です。↓(鑑真)
師匠の道忠は、最澄とも深い法縁を持たれた方でした。
最初の頃、、比叡山にはまだ経典や仏教論書が充分備わっておりませんでしたが、道忠は、最澄の依頼を受けて、2.000余巻の経疏類を書写して贈りました。
道忠は、書写が届いた翌年に、最澄に弟子入りしています。
最澄はこれを大変喜び、ご自分の名の一字の「澄」をとって「円澄」という名を与えました。
円澄以後、道忠の弟子が最澄のもとにやってきました。
比叡山に入山した円澄は、厳しい修行に励み、100人の僧侶とともに、最澄から菩薩戒を受けました。
その翌年、最澄が始められた、長期間の『法華経』講義では、第一巻の講義を最澄が講義して、第二巻の講義を円澄が担当するように言われています。
さらには、桓武天皇が病に伏した時の密教の秘法を修するように、最澄に指名されていますし、最澄が一時病で危なかった時、後継者指名(次の伝法座主)も受けていました。
最澄が回復したのちは、密教を学ぶために、空海の下で修学に専念するように、最澄から派遣もされています。
空海の元から戻ってきた円澄は、最澄の東北への布教にも付き従っています。
最澄無きあとは、兄弟子の義眞(最澄が唐に行ったとき、通訳として同行した僧)が最初の天台座主になり、義眞なきあとに、円澄が後をついで2代目天台座主になりました。
こうやって、法灯は引き継がれていったのです。