最澄を知る4 最澄願文全文
若い最澄の気概が溢れた願文です。最澄が出世を捨ててまで求めた純粋な祈りが満ちています。最澄の時代、飢饉や疫病で苦しむ人たちが多くいたのです。その人たちを救うための仏教を最澄は探し求めていたのでしょうか。
【『願文』現代語訳解釈文】
制作・天台典籍勉強会
はるか限りないこの世界は、ただ苦しみばかりで安らかなことは無く、乱れ騒がしい生き物たちは、ただ思い悩むことばかりで安らぐことはない。
お釈迦様が遠い昔にお亡くなりになられてより以来、次のほとけさまは未だお姿を現されていない。
災いによるこの世の終わりが近づきつつあり、人々の考えが誤って汚れに満ちた世の中に沈んでしまっている。
その上、風に吹き消される灯火のようにはかない命は保ちがたく、朝露のようなこの体は消えやすい。
草葺きの葬送を執り行うお堂には楽しみは無いのに、老いも若きもここに白骨を散じさらし、墓の中は暗くて狭いにもかかわらず、どのような身分や職業の人であれ相争ってここに魂を宿らせるようなものである。他人を仰ぎ見て、自分を省みるに、この理は確かである。
わたしは不老長寿の薬をまだ飲んでいないので、魂をこの世に留めておくのは難しい。
また前世の行いの善悪を知る神通力をまだ得てはいないので、自分の死期をいつであると定めたらよいのであろうか。
生きている間に善い行いをしなければ、死を迎えた日には地獄の薪となって火に責められるであろう。
得ることが難しく、また得てしまえばほかのものに生まれ変わってしまい易いのが人の身である。
起こし難く、起こしても忘れ易いのが善の心である。
そこでお釈迦様はこのことを、大海原の中の一本の針を探すことや、世界で一番高い山の頂上から垂らした糸を麓の針の穴に通すことに喩え、中国古代の賢い王である禹(う)は、少しの時間、わずかな暇をも惜しみ、一生が空しく過ぎ去ってゆくことを嘆いた。
原因が無くて結果があるという道理はなく、善い行いをすることなく苦しみを免れるという道理もない。
ほとけに伏して自分のこれまでの行いを尋ね考えてみるに、戒律にかなう正しい行いもなくひそかに衣服や食事などの生活の世話を受けながら、真理を知らず愚かにしてまたあらゆる生き物に迷惑をかけている。
このためお経には「他に施す者は天に生まれ変わり、逆に施しを受けてばかりいる者は地獄に入る」と説かれている。
ある女性が前世において献身的に施しの精神を実行したところ、生まれ変わって国王の后となる幸福に恵まれ、その施しを貪り受けた5人の出家者は、生まれ変わって皇后の乗る御輿をかつぐ奴隷となる不幸な結果に顕れた。
行いの善悪により、その結果の善悪もまた明らかである。
恥を知る人であるならば、誰がこの教えを信じないであろうか。
このようなことにより、苦しみの原因を知りながらその結果を恐れない者を、お釈迦様は悪の心に囚われてほとけと成るに及ばない者として退けており、人の身に生まれながら、いい加減に過ごして善い行いをしない者を、ほとけのおしえでは、宝の山に入りながら何も得ずに帰る者であると責めている。
ここにおいて、愚か者の極みであり、狂っている者の極みであり、徳のないつまらない僧侶であり、最低である最澄は、仏弟子としてはほとけのおしえに違反し、国民としては天皇の定めた法に背き、子供としては親孝行を欠いている。
謹んで迷い狂える心に随いながらも、ここに五つの誓いを起こした。全てのものにとらわれないことを手段とし、最高の真実のおしえのために、壊れたり退いたりすることのない、堅い決意の心からの願いを起こしたのである。
1. わたしは、世のあらゆる出来事を先入観や煩悩に惑わされずありのままに見聞きし考えることができる相似の位という修行の段階に至るまでは、比叡山を下りて世間に出るまい。
2. ほとけの教えを明らかに照らし出す心を得るまでは、修行に関係ない芸事はするまい。
3. 戒律を完全に守り身につけることができるまでは、法要に出て施主からお布施をいただくことはするまい。
4. ほとけの智慧に満ちた心を身につけるまでは、世間の諸々の仕事をするまい。ただし、相似の位を得たならばこの限りでない。
5. わたしが現在の世で修めた善い行いの報いは、独り占めすることなく遍くすべての生き物に施して、ことごとく皆最高のほとけの智慧を得させたい。
もしこの心からの願いが叶って相似の位に至り、5種の不思議な力(見えないものを見る・聞こえない声を聞く・他人の心を知る・過去を知る・どこへでも自由に行く)を身につけたときは、必ず、自分だけがほとけの智慧を得ることなく、ほとけと同等の存在にはならず、あらゆる物事にとらわれることはなすまい。