旧東海道の謎3、どうして京都が終点なの?(どうして京都ブランドに拘るのかなぁ?ウチは真実を目指す | FC2に移転しました(線路巡礼)

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旧東海道の謎3、これも涙の最終回

今回の謎は
「どうして京都が終点なの?」

教科書は言うに及ばず、
ほとんどの書物にはこう書いてあります。

江戸時代に徳川幕府によって、江戸を中心に五街道が整備されました。
そのうち、江戸~京都を結ぶ重要な街道が「東海道」です。
ついでに、途中に宿場も53箇所整備され、
東海道53次として、後世に知られます。
旧街道の中で、ダントツに有名。

江戸時代の東海道は、江戸から京都まで
と、教科書やマスコミから刷り込まれます。


昨年2月から
江戸日本橋を起点に、お散歩をフラフラとはじめてしまった私たちですが、
ここで新たな謎にぶつかってしまいました!


どうして、京都までなの?


教科書に書いてある、歴史的背景は、こんな感じ
徳川家康が江戸に幕府を作るまでは、京都が日本の中心だった。
おまけに、朝廷はそのまま京都に残ったので、
京都との交通は重要だった、から。

でも、
江戸徳川時代の前の日本の中心は、豊臣秀吉のいた大阪です。
江戸時代に移っても、日本の経済の中心は大阪でした。

京都は大事でしょうけど、大阪はもっと大事じゃないの?

だから、
せっかく街道を整備するのであれば
常識的に考えて、大阪まで整備するのではないですか?
どうして、旧東海道は京都で終わっちゃうの?
どうして、大阪までいかないの?

日本人なら誰でも疑問に思うのではないでしょうか。大疑問です。
(思わないかな?、笑)


アレコレ調べてみたのですが。
答えは、意外と簡単。

江戸時代の東海道は
やっぱり江戸から大阪までなのです。

江戸に幕府が出来て、
京都まではすぐに開通。
そのあと、少ししてから大阪まで延ばされました。

一度に大阪まで整備しなかったのは、
大阪城に、反幕府勢力の豊臣一族がまだいたから。
こいつらを平定したあとは、さっさと大阪まで開通です。


でも、
疑問は解けません。

だったら何故、
東海道53次、
京都三条大橋までの旅
というのが、いつまでも呼称され、定番になってしまったの?

江戸時代の人々が
東海道は何処まで、と教えられていたかどうかは知りませんが
何故、今の学校や書物、マスコミは、
東海道53次、京都三条大橋への街道
と、固執し続けるのかな?


調べていて、さらに、
京都が終点というのは、絶対におかしい、ことに気づきました。


旧東海道
それはそれは「江戸防衛」に腐心したシステムでした。

川に橋を架けない、

厳しい関所を作る、

宿場以外の場所で宿泊してはイケナイ
(ヤミ旅籠や野宿禁止ということですね)

全く庶民泣かせの街道です。

ところが、東海道には、
さらにスペシャルな防衛システムがありました。

庶民には関係ないのですが、
大名は京都には入ってはイケマセン!

う~む
目からウロコが百個くらい落ちるような、
目の覚める防衛システムです。
単純、且つ最強?


ちょっと日本史の解説ですが。
江戸幕府は各地の大名に、
参勤交代というのを命じていました。
毎年、大名は江戸に出勤しなくてはイケナイという、非常に迷惑な制度。
大勢の家来を引き連れて、江戸まで出張するのが、
有名な「大名行列」ですね。
これは非常に金がかかりました。
これで有力大名の「資金力」を削ごうというセコイ考えですから、致しかたない(泣)
大名は泣きました。

でも、この参勤交代のおかげで、沿道は整備されたわけです。
一般庶民としては、悪い話ではない?

江戸時代になっても、相変わらず天皇制度は京都に存在しました。
日本の歴史、最高の不可思議ですが、
幕府は、この「危険分子」を排除することはしませんでした。
この危険分子は、平気で裏切り行為を働き、
平時に乱を起こす、口実を与えたがります。

有力大名が京都に入り、天皇システムと接触してはマズイのです。
また、どんな悪いことをするかワカリマセン。

危険な有力大名というのは、
西日本に点在しました。
有名なのは、島津家(鹿児島)とか、毛利家(山口)ですね。
こいつらが江戸まで出張するとき
やはり東海道を通ってしまいます。
すると、京都に立ち寄ってしまう。

アブナイ、アブナイ

でも、
参勤交代はしてもらわないと、困る・・・

そこで考え出されたのが
最強の防衛システム。

迂回路です。
京都は無視する。
大名は京都へ立ち入ってはイケマセン

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/43/fd/lunchapi/folder/1448259/img_1448259_45646988_0?-1
江戸から西へのびる東海道。
山科の追分、というところで、見事に分岐します。
右は、危険な京都エリアに入る道。
左は、経済の中心、大阪に至る道。

私達は雪のなか、右へ行きました(庶民ですから、笑)
ちょうど、奥さんの靴グチョグチョ事件の最中なので、
ゆっくり見学できませんでした(泣)

でも、大名は右に行くことは禁止されていました。カワイソ。
左に行くと、京都に立ち寄ることなく、大阪に出られます。

だから、
山科~京都は、本当にどうでもイイ道だったのです。
当時の一般庶民も、当時の京都なんかに興味なかったと思います。
京都に至る直前、あの区間が異様に細い道だったのも頷けます。ウンウン。
あれは、あくまでも「支線」

旧東海道は、京都までではなく、実は大阪まで。
というより、京都なんかに行かなかった、と断言してもいいくらいです(笑)
メインは、あくまでも大阪です。
(もっとも、この大名の京都立入禁止は、幕末の頃は完全に無視されてしまったそうです)

ちなみに、あの有名な弥次さん喜多さんの話は、
江戸から伊勢参りの話なのです。
はじめから京都なんか眼中にありません(笑)


当時の公文書で、東海道は江戸~大阪となっていて、
ほとんどの人は京都ではなく、大阪に向かったと思われるのに、
現代人はどうして「京都まで」という言葉に拘るのでしょう?

今の教科書にも「京都まで」と書いてあるのかなぁ?(知らない)
人間って、間違ったことは、なかなか直せないのですね。
京都終点説は、すでにブランド化してしまっているようです。
クダラナイ。


では仕方ない。
私が直して差し上げましょう。
私には、世間の間違った常識なんか通用しないよ!(笑)

旧東海道は、京都三条大橋が終点じゃないよ。
あれは、あくまでも「支線」の終点。
「本線」は大阪に至るのです。

では、世直しのため?
大阪に向かって出陣ですぅ

もっとも、
現代の間違った東海道伝説のおかげで、
大津~大阪の道についての情報が全くないのです(泣)
ある程度、道が分からないと歩けません。

現在、調査中です。
道が分かり次第、進撃開始かな?

今、分かっているのは、
大阪の終点は
「高麗橋」という場所だということだけ。
江戸時代だと「大坂」高麗橋ですね。

大阪で
たこやきが待っています♪
USJが待っています♪♪

何時になるやら、全く全く未定でござりまするぅ(笑)



イメージ
追記:
これは草津の歴史資料館に堂々と展示された旧東海道の地図。
最近のデジカメはよく写るなぁ。
どうです。
東海道は、大坂まででしょ?

京都行きは、あくまでも支線。
もっとも、ここ草津に至るまで、街道沿いの資料館等で、
大坂まで、
と書かれたものは一切ありませんでしたけど。

あの惑星の定義(冥王星)だって、長い慣行を改めたのだから、
旧東海道もそろそろ改めないと、
ダメだよ!(笑)