最近あらためて英語という言語の合理性について考えている。

 

趣味というほどのものは持ち合わせぬ私だが、言語学習、特にオンラインなどで外国人教師に教わる授業はいつまでたっても楽しくてやめられない。しいて言えば語学学習は私の趣味だと思う。

 

今まで手を出した言語は数知れず、肌に合わず匙を投げた言語もいくつかある。韓国語、スペイン語はその筆頭だ。そういえばフランス語もドイツ語もやめてしまったっけ。(ただしこの2言語は機会があれば再開する気持ちはある)

 

今まで挑戦したスペイン語、フランス語、ドイツ語、イタリア語などの西側の言語には全て名詞に性別があり、その都度異なる冠詞を必要とする。ドイツ語に至っては主語、目的語でそれぞれ異なる形の冠詞がつき、目的語も与格と対格なる2種類があったように記憶している。動詞の活用は主語や時制によっていちいち変わり、イタリア語の接続法とやらはいつになってもよくわからない。代名詞の活用も極めて煩雑で、あんなに陽気に”チャオ~♡”などと言っているイタリア人の底力にいつも度肝を抜かれている。我らが隣人にして文化の源である言語、中国語も中国語だ。語順も発音も難しすぎてぐうの音も出ない。

 

さて、話題を英語に戻す。冠詞についていえば、英語はa(an)とthe だけ。動詞の現在形はbe動詞以外三人称単数の時にsをつければいいというお手軽さだ。よく使う動詞の過去分詞系や形容詞・副詞の比較級、最上級は不規則なものが多いものの、他の欧州語の用言変化に比べれば、かわいいモノである。ナチュラルに使いこなしていてうっかりしているが、わが日本語の用言変化も相当えぐいもので、それに比しても英語の単純さは際立つと考える。

 

古英語というものを見たことがあるが、かなりドイツ語に似ているものだったと記憶している。語彙に関してはかなりロマンス語の影響を受けているが、英語はドイツ語と同じ源流を持つ言語といってよかったと思う。それなのに英語には与格対格の区別もないし、複雑怪奇なドイツ語の冠詞が「どんだけ~!」と大きめの声で発話したくなるほどに簡素化され、いかなる時も特定のものならthe、不特定の加算単数名詞ならa(n)で良いのだ。形容詞の語尾も名詞によって変化したりしない。主語は私でも、あなたでも、君でも、彼でも、彼女でも三人称単数とそれ以外という大まかなくくりでよいのだ。だったらなぜ三単現のsだけ残したんだ?とか小さな疑問はないわけではないが。

 

英語におけるこの言語の改変は意識的なものだったのか、それとも英国人の合理性もしくは「ものはもの。女性でも男性でも中性でもない!」というリベラルさゆえに気づいたらこうなっていたのかは定かではない。しかし、このように西洋語の中でも突出した単純化と合理化を実現した英国人の頭脳に私はある時期世界の覇者となった大英帝国の神髄を見るのだ。不必要な部分は合理的にそぎ落とし、機能的に必要なものは残す。今の英語、言語としてなんら不足はないではないか。der, des, dem, den? ein, eines, einem, einen? theとaでいいじゃん!この潔さが、キリスト教的価値観を打ち破り人類は猿から進化したという進化論を生み出したり、万有引力やら、微分積分法を思いついたり、第一次産業革命の原動力になったりしたに違いない。英国人、すごいぜ!

 

大学生が必ず第二外国語を学ぶのは英語の合理性に気づくためではないかと思ってしまうほどである。

 

英語が世界共通語と言われて久しいが、これからも「机」は男性か女性かなどと考えなくてよい英語は、ジェンダーレス社会にも適応し、ますます栄えていくのではないかと思わずにいられない私である。

 

あ、このブログを書くことも趣味・・・かも・・・目を止めて下さる方、ありがとうございます。