さて、前回、ドラマ「親愛なる僕へ 殺意を込めて」雑感を記した。その中に出てくる二重人格(解離性同一障害)は厚労省のサイトによると:

 

解離性同一症とは、かつて多重人格障害と呼ばれた神経症で、子ども時代に適応能力を遥かに超えた激しい苦痛や体験(児童虐待の場合が多い)による心的外傷(トラウマ)などによって一人の人間の中に全く別の人格(自我同一性)が複数存在するようになることをさします。

 

昔で言えば「ジキルとハイド」が有名だが、なかなかリアリティがなかっったのが正直なところだ。

 

ところがここ数年、私が見た(見ている)ドラマだけでも「ミステリというなかれ」、「初恋の悪魔」、現在放送中の「親愛なる僕へ 殺意を込めて」においてこの神経症が扱われている。奇しくも「ミステリというなかれ」では「親愛なる僕へ 殺意を込めて」でも複雑な過去を持つ登場人物を好演している門脇麦さんが解離性同一性障害を発症した女性ライカを演じていた。彼女の場合はたしか義理の父に性的虐待を受けていたという設定で、そこから「ライカ」という別人格を発症していたが、治療が進む中でこの別人格が消えていくというものであった。

 

「初恋の悪魔」では摘木星砂という女性が、2つの人格を持ち、人格Aは主人公男性A(悠日)と、人格Bは主人公男性B(鹿浜)とそれぞれ恋をするが、人格Bは少しずつ現れる時間が短くなり、消えていくという経緯だった。一つの人格が消える前に表れる頻度や長さが減っていくというのは星砂とライカに共通する点だ。星砂の場合、高校生の時家出して、リサという女性に保護された時は人格Bの彼女で、その後リサが冤罪で逮捕され、その罪にかかわる大事な局面で人格Aに。警察官になり、主人公男性Aの兄が殺された時は人格B、警察仲間たちが認識しているのは人格B。結局消えていくのはBなので、Aが本当の彼女なのだろう。家出前に何かきっかけがあり、Bという人格が生まれ、その後消えていった。

 

どちらのドラマも消えた人格と主人公に心の交流が生まれ、消えてしまう人格は、自分がもうすぐ消えてしまうことを自覚して別れを告げたりする。どちらもとても切ない別れだ。どちらも同じ一人の人間の人格であったことに変わりなく、主人格以外もその人であることに違いないように思うのだが、ある日消えてしまうのだとしたら、その人格は、真実とはいえないのだろうか。とはいえ、これもまた生きるために脳が編み出したサバイバル術のようで、次のような話は大変学びが多い。

 

13人の人格を持つharuさんインタビュー 「生きづらさ」を後ろから支えてくれた彼らと生きる|好書好日 (asahi.com)

 

「親愛なる僕へ 殺意を込めて」もまた、解離性同一性障害の話で、主人格はいわゆるB1の方らしい。義理の父エンケンとの関係性の中で生まれたことが予見されるエイジの第2の人格だが、他のドラマの経緯を見る限り、ドラマの終わりには本来のB1だけに戻るのだろうか。

 

残酷シーンが少なくなることを願いつつ、今後も楽しみにしている。