レジ袋の削減を意図した一律有料化がはじまり、一年以上が経った。
なんでもかんでも袋に入れ、また使うために家庭に蓄積され、結局使い道がなく、袋自体がゴミになるというのはいただけない。そのため、当初スーパーやドラッグストアでこれが取り入れられた時、袋がたまらないってなんてすがすがしいのだろう!!!と思ったものだ。

しかし、コンビニは少し事情が違う。私が一番不便に感じたのは、買ったお昼を食べた後の処理である。パンやおにぎりくらいならよい。しかし、サラダや麺類、煮物入り弁当など汁気があり、空き容器を洗う環境がない時など、容器の水分をある程度不要紙に吸わせて、できる限りの処理はするものの、そのまま捨ることに私は悩んだ。ごみを回収して下さる方が他人が食べた後の汚れた容器から出た水分や匂いで嫌な思いをするのは申し訳ないし、かといって家に持って帰って洗って捨てるほどの気概もない。

そんな私には、食べ終わった容器を全て収納可能で、キュッと結べばある程度中のものも出てこないことを可能にしてくれるレジ袋は貴重だった。それはごみの処理をして下さる方へのエチケットであり、私の血液中のDNAが命令するところの行動だったのだと考える。

この「包み隠す」という嗜好は日本人の美徳だ。悪い捉え方をすれば「臭いものに蓋」。しかし、大切な美しいものを奥ゆかしく包み隠したり、人に見せたら失礼と考えるものを包み隠したり、他社への配慮溢れる素晴らしい習慣だと思う。そして、この美徳はリスが木の実を地面に埋め、カッコウが托卵するのと同様、日本人のDNAに組み込まれた行動なのだ。

もちろん、このDNAが暴走し、我が国の過剰包装が度を越していることも否めず、現状が原則的には良い方向に向かっていることは明らかだ。レジ袋がなくなり、小さなべとべと、じめじめゴミは、お菓子のプラスチックの袋に入れて、テープやゴムで密閉して捨てるようになった。肉や魚のドリップを防ぐビニールも人に迷惑をかけそうなごみの防水処理に活用するようになった。(往々にしてこの種のビニールはパックの角などに引っかかったり、尖ったものが貫通したりして破れているので防水効果の信頼度は低い)今までゴミに分類していたものが、かつてのレジ袋同様、ごみを捨てる時のエチケット袋として活用できることになったというわけだ。しかし、弁当のパックを入れられるサイズの不要プラスチック袋はまれで、家ではない場所でこのような弁当を食べる場合はレジ袋を購入してしまう。

手づくり弁当を用意すればいいだけかもしれないが、それができないからこういうことになっているわけで、こういう人がたくさんいるからコンビニ弁当産業が繁栄しているのだから、解決にはそのような現状を考慮した策が必要だ。