看取り学を知ることによって死生観がプラスに変わる | 神戸⭐️生命の樹カウンセラー、カラーセラピスト、寄り添い人、マンダラエンディングノートファシリテーター、看取り士

神戸⭐️生命の樹カウンセラー、カラーセラピスト、寄り添い人、マンダラエンディングノートファシリテーター、看取り士

人生の青写真を、カバラの生命の樹の図形と占星術とスプリットカラーの情報から紐解く、生命の樹ライフナビゲーションを提供中。癒しのカラーセラピーで癒しと安らぎを
年齢問わず生活の中の小さなお困り事をサポート

こんにちは😃
小坂  くみこです。


梅の花があちこちで咲き始めて、近づくと良い匂いがします^_^  春の兆しを見つけるとウキウキしてきますおねがい


看取り学を知って、これまでの死生観がプラスの死生観に変わったことにより、グリーフが癒された方の投稿をご本人の了解を得てシェアさせていただきます。


また
3月31日(日)には奈良県で看取り士  柴田久美子先生の講演会があります。ぜひご参加くだされば幸いです。


〜引用ここから〜

【柴田先生の講演会が関西でも!】

「夜中に爪を切ると親の死に目に会えない」と昔から言われているが…無視してそれをやってしまってきたせいか、私は近しい人の臨終に立ち会えたことがない。(実際には自分の方が早く死んでしまうため、親に会えないという意味らしいが)

同居していた父方の祖母が亡くなったのは、大学の入学式の前日だった。祖母のことがあるからと、泊まりで家を空けることの滅多になかった両親と姉夫婦が、私の引っ越しのためたまたま一緒に神戸に来ていた日のことだった。知らせを受けて、新居の片付けもそこそこに家族は広島にとんぼ返りし、残された私は初めての独り暮らしの夜を、寂しさと悲しさに押し潰されそうになりながら過ごした。

母方の祖母は、私が海外留学している間に亡くなった。慌てて飛行機に飛び乗る訳にもいかず、私はふたりの祖母のお葬式に立ち会えなかった。

しかし、それでいいと思っていた。死に目に会っていないため、いなくなった実感がない。まだどこかで生きている、そんな気にもなれるから、神様は敢えて私がふたりに会えないようにしてくれたんだと、そう思うようにしていた。

しかし昨年、父が亡くなった時はそうもいかなかった。父を介護していた母が脳梗塞になってから、施設に入っていた父。いったんは家に連れ戻し、姉が母とふたり看ていたけれど、老人ふたりの介護は難しいこともあり、再び施設に入れることを余儀なくされた。会いに行くと帰ると言ってきかないので、行かない方がいいと釘を刺され、お正月に帰省した時も会いに行かなかった。その矢先の死。父をひとりで「死なせてしまった」との思いから逃れられず、苦しかった。でもその気持ちを吐き出せば、姉はもっと辛い思いをするだろう。

そんな思いから救ってくれたのが、看取り士・柴田 久美子先生の著作。死は怖いものでも、忌むべきものでも、ましてや敗北でもない。死を受け入れた瞬間から人は仏になる。旅立ちの瞬間は神々しく、逝く人は遺された人にとてつもないエネルギーを渡していく。そんな、素晴らしい瞬間なのですよ、と。

そして、逝く人は旅立つ瞬間も自分で決める。家族に囲まれて旅立つ人もいるけれど、家族に負担をかけまいと、ひっそりと逝く人もいる。それはその人の選んだことなのです、と。

喜びに満ちている出産・育児と違って、悲しみに向かう介護・死については、あまり語られることがない。死は忌み嫌うもの、触れるべきでないものとの死生観が強い日本ではなおさら。育児に悩む親の気持ちを受け止める場はたくさんあるが、介護者のそれはどうであろうか。

成長の喜びがある育児と違って、状況が悪くなることはあっても良くなることは殆どない介護の場で、私たちの心はどうしても暗く澱む。記憶に残る昔の威厳ある姿は見る影もなくなり、尊敬していたかつての親が、自分の知る親ではなくなっていく。何よりも辛いのは、その点ではないだろうか。若くして亡くなられた親御さんを、気の毒にも残念にも思うけれど、反面、ご立派な姿を子どもに見せたまま旅立たれたのだなと思い、羨ましく思ってしまうこともある。

しかし、死が喜びに満ちた、温かいものであると思えたなら…その気持ちも変わるのではないか。死に向かう親に、大切な人に、かけてあげられる言葉も、一緒に過ごす時間の意味も変わってくる気がする。

そんなことを教えてくれるのが、柴田先生。誕生の瞬間をサポートする助産師がいるように、死をサポートするのが看取り士。死に直面して気が動転している家族に代わって、逝く人の気持ちを読み取って伝えたり、どうすべきか指示をくれる。息を引き取ってすぐに体をドライアイスで冷やそうとする葬儀社との間に入って、まだ温かさの残る体を抱き締め、家族がゆっくりとお別れをする時間を確保してくれる。

臨終とは、息を引き取る瞬間のことだけを言うのではないそうだ。死に向かう準備期間、そして、息を引き取ってからもしばらくその時間は続く。実際、ラットを使った実験があるという。死んだ直後は体重はそのままで、30~40分ほどしてからスーっと重量が減っていくのだそうだ。「いのち」には重みがあるということ。そしてそれは息を引き取ってもしばらく、その人の体に宿っている。この間に、しっかりと体を抱き締め、逝く人のエネルギーを受け取っていくことが、遺された家族のグリーフケアにも繋がるそうだ。

そんな柴田先生のお話を聞ける機会を、ぜひ地元の関西でも作りたいと、私を柴田先生に引き会わせてくれた友人の乗本 奈穂美さんが企画してくれた。

平成31年3月31日(日)、奈良のせせらぎホールにて。収益金はすべて西日本豪雨災害支援に使われるとのこと。どうか、この機会にひとりでも多くの人に、死とは、看取りとは何か考え、それについて話す機会を持ってもらえたら、と思う。

講演会の時は奇しくも父が亡くなった3月。深いご縁を感じずにはいられません。


Oさん、ありがとうございました。
たくさんの方に届きますように。