阪神淡路大震災から24年☆自分の中で風化させないように | 徳島☆ 看取り士、生命の樹カウンセラー、マンダラエンディングノート

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人生のゴールから今を見つめることで、希望を持って活き活きと今を生きるためのサポートを致します。
大切な人を亡くした方の心に寄り添い自分の力で立ち上がるサポートを致します。
全ての方が人生の最期に幸せだったと思える社会を創るための活動をしています。

こんにちは😃
小坂  くみこです。


今日は阪神淡路大震災から24年目の日です。


午前5時46分に黙祷し、亡くなられた方々のご冥福をお祈りしました。


当時、西宮北口に住んでいました。


ものすごい揺れと、ガラスの割れる音、瓦が落ちる音。停電して真っ暗闇の中で何もできずに、4歳だった娘を抱きしめるしかできませんでした。


白々と夜が明けた時に見たものは、昨日とは全く違ってしまった景色。


近所の家がペシャンコに潰れている。


住んでいた社宅は倒壊は免れたものの、
家の中は家具が倒れて、食器も割れてガラスが散乱してめちゃくちゃ。


余震が続くので車で近くの小学校の校庭に避難しました。


何百人単位で増えていく死者の数。ラジオを聴きながら、大変な事が起きたんだとやっと理解しました。


今は亡き実家の父はニュースを聞いて西宮に向かったそうです。


新幹線は名古屋で止まっており、名古屋からは在来線が通じているところまで、そこからは親切なタクシーの運転手さんが行けるところまで行きましょうと走ってくれて、そこからは徒歩で。


一昼夜かけてたどり着いたものの、部屋には私たちはいなくて、小学校の体育館を探し回ったそうです。


近所の人が、誰かが貴方達を探しているみたいと教えてくれて、やっと父と逢えました。


幸い、伊丹空港は✈️動いていたので、父と一緒に娘と実家に避難しました。


何も持たずに出たので、友達がおもちゃや洋服を持って来てくれてとてもありがたかったです。


24年経って、薄れている記憶、まだまだ鮮明に覚えている記憶の両方が存在しています。時の流れを感じます。


あの時、生かされたことを忘れずに今ここを大切に生きていこうとあらためて思いました。


そして、あの日のことを次世代の家族に語り伝えていくことも忘れないようにしたいと思いました。


南海大地震が起こるのが近いと言われています。


防災用品など備えられることは備えて、震災の教訓を生かしたいと思います。


(お写真、新聞記事からお借りしました。)