昨日は、愛先生の動画に香山○カさんが出演される座談会の回となりましたが、

ちょっとした騒ぎになっていましたね。滝汗

 

私もチラリと最初の方だけ拝見しましたが、

やはり相手側の方に良い思いを抱いていなかったので、

見る気がせず、途中でやめてしまいました。(その後、公言されてらっしゃるように、動画は三者合意の元、削除されたそうです)

 

この件で私が感じたのは、愛先生という方は、

実は私たちが想像する以上に純真無垢で、ニュートラルに万人を見て接している方なのではないかということです。

本質を見、そこで人と向かい合って生きてらっしゃる。

(先日の藤原先生たちとの三者対談を観ていても、内容よりも、愛先生が他の二人の先生にちゃんと敬意を示してしっかりとお話を聞かれるそこに、愛先生の素晴らしさを見た気がしました。人間性ですね。)

 

だからこそ、ある意味ではちょっと浮世離れというか、現実的にこのような問題?も起きてしまったのかもしれませんが、私はだからと言って、愛先生にしっかりして欲しい、変わって欲しいとか、そのようなことは思いませんでした。

 

今回のことで、周りのスタッフの方も出版社の方も色々ご経験されたかと思うので、

愛先生の周りを今後さらにしっかりと締め、愛先生は愛先生らしくあれるように、そしてだからこそのお話や語りや実験を、思う存分やって頂きたいーーーと思います。

 

 

昨晩最後の動画のお話は、また素晴らしいものでした。

昨日の事件?!を取りなすでもなく、謝りすぎるでもなく、お疲れをアピールしすぎるでもなく、

またもや私たちにマタイ伝からの抜粋で、大事なお題をポンと差し出して下さって、1日を終えられました。

 

「普通って、いいですよね」と、普通の内容を配信できることを、しみじみ有り難そうに語っておられました。

 

動画の下に、その内容の要約を貼っておきます。

 

そしてそのさらに下に、私個人の備忘録を添えておきますね。

 

「神に選ばれるのは、霊的に高いとか周波数が高いというのではなく、

小さな者にやさしい気持ちを持てる人かどうかで区分けされるというのです。」

 

真実は、実にシンプル。

真実を追いかけて、ここまでやってきましたが、まさかここに行き着くとはーーーニヤニヤキラキラ

 

 

愛先生、ありがとうございます。キラキラ

 

 

 

 

 

トルストイの話にある靴屋のマルチン。

それはマタイ伝という新約聖書の中のイエスの話しからヒントを得て作ったものです。 

マルチンは夢のイエスに告げられます。「明日あなたは私とであう」と。

しかし、翌日マルチンが出会った人は、寒そうにして雪かきをしていた老人であり、やはり寒そうな薄着で赤ん坊を抱いていた女であり、リンゴ盗む少年と困っていたリンゴ売りのおばさんでした。 

 

今日も普通と同じ一日が終えていくと思ったマルティン。

「イエス様のことはやはり夢だったんだ」と床に就くと、イエスが夢枕に立って、

「私は老人であり、私は赤子を抱いた貧しい女であり、私はリンゴを盗んだ少年であり、困っていたリンゴ売りの女であった」と告げます。 

 

この物語りの原典であるマタイ伝では、次のように書かれています。 

もっとも小さき者になしたのは、すなわち私にしたのだ、、、という内容が細かく書かれている。 

 

そして昨日、たまに見るYouTube動画でその話しをしている方がおり、神が人を神と悪魔に分類するのが、小さき者に成す気持ちがあるかないかで判断する、、、とおっしゃっていたのがとても印象的だったのです。 

世界には終末思想があります。

そして最後が主の日になるのですが、その日には人は二分されるとのことです。

 

神に選ばれるのは、霊的に高いとか周波数が高いというのではなく、小さな者にやさしい気持ちを持てる人かどうかで区分けされるというのです。

小さな者に心を向けられない人と、向けられる人がいるというのです。 

この神の選別のポイントは、極めてわかりやすく、その通りと思った次第。

何か良いことをするのも大事でしょうが、そうした心を持てるかどうかは、けっこう最初から決まっていて、持てない人はどんなに立派に見えても持てないようになっているらしい、、、

神に属する人は、そうした心を持っている、、、というような私の解釈ですがそうおっしゃる。

 

なるほどな、、、と思った次第です。 

トルストイの小さなこの話しは、神の選別を示す、大きな意味がきっとあったのだと思います。

単に良いことをしましょう、、、ではない、選別のカギを語る物語りではないかと。 

 

実際、トルストイは貧者にほどこしをするばかりに妻や家の女性たちと決定的にうまくいかなくなります。

様々な条件や事情があり、トルストイが正しいのか、妻が正しいのかは私たちにはわかりませんが、小さい者へのやさしい心をトルストイがもっていたことはうかがえます。 

 

今が終末とはいいませんが、終末チックな様相がこれまで以上に高まりつつある中で、自然で二度と会わぬ小さな者へやさしい心を向けられる価値は、高まっているように思います。 

 

お知らせ 

本日は大変お騒がせしました。皆様のお叱り、応援に本当に感謝する次第です。

あれから、今回の問題は私が座談会の内容と対談相手への理解が足りないことが原因で起きたことで、対談者に対しても出版社に対しても、申し訳ない気持ちでおります。 

遅ればせながら色々なことが自分なりにわかってくるにつけ、価値観や生き方、考え方の相違に気づき、どちらが正しいとかでなく、このままでの対談は三者にとって不自然なものになると考え、対談記事の削除をお願いいたしました。 

私のわがままを両者ともお受けくださりましたので、9月13日の発売内容から私との座談会記事はなくなることとなりました。

つきましては、これに関係する二本の動画も本日をもって消去させていただきます。

すべて白紙に戻すことで三者合意いたしましたので、皆さまにお知らせする次第です。 

本日、12時頃を持ちまして、二本の動画は消去させていただきます。

多くの皆様にご心配をおかけしましたこと、ありがたく心に留め置くつもりです。

ありがとうございました。

 

 

ーーー要約転載終了ーーーーーーーーーー

 

 

<Luce 動画からの備忘録 >

 

2:35〜

・普通っていいですよね。

 病気になった時とか何かに苦労した時とかね、死ぬ間際かもしれない、

 そういう時に思い出すのは、何か特別に素晴らしいことではなくて、

 普通の日々のありがたさ。

 

12:05〜

・一つの「終末」に来ると、(一つの心の問題として)神はどういう人を神の国に招くのかーーー

 そしてそういう人を神の国から遠ざけるのかーーーというはっきりした見方、ポイ

 ントがある。それがマタイ伝の25章だと。

 

・何をやってきた云々、立派な業績を残したーーそれもいいけれどそうじゃなくて、

 「お前たちは私が飢えていた時に食べさせ、喉が乾いた時に飲ませ、旅をしていた

 時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれた」

 

 それは知らない人(に)ですよ、だから小さいものですよ、僕らにとっては、

 そして一般的に。

 しかし、その小さいものについ、施しをしてしまう。思いを寄せてしまう。

 一言で言えば優しさーーー本当の優しさだよね。

 だってもう二度と会う人じゃないんだよ、優しさですよ、だから。

 (これが)神の国に入れるかどうかの分かれ目だって言うわけ。

 鍵だって言うわけ。

 

・決して難しいことじゃない、何か霊的に高いとか、周波数が高いとか、

 そんなことじゃない。

 もう二度と会わない人でも何か哀れに思ってその人に、思いを寄せてっていう

 そう言う気持ちを持つ人が、救われる人だとイエスは言ったわけですよ。

 

・神の判断基準はわかりやすいですよ。

 しかしパリサイ人のように神の名を語りながら立派なことは言うけれど、

 そう言う心を持てない人というのもいるわけです。

 これはもう外に出されているーーー

 

・神と悪魔に寄り添うものを仕分けする時代が来るーーーというわけね。

 (それが終末という意味なんだけど)いい人か悪い人かっていうのは、

 何をやったっていうよりも、そういう心を持っている人かどうか、

 もう二度と会わない人に親切にできる心というのは、とても貴重だと思う。

 

・ただこれも、パリサイ人のように「そうか、そうしなくちゃいけないのか」

 と言った時に、何の価値もなくなるんですよ。

 常にそういう心を持てる人と持てない人は、実は努力とか関係なくて、

 最初から神に属しているか、悪魔に属しているかというあたりが、

 聖書のいう怖さ。

 

・日本ではそこまで厳しいことは言わないけれど、人を見る時にこれは一番

 分かりやすい、単純な見方だなあという気がしています。

 

・誰と共に生きるか、誰と共に暮らすか、ということの

 これも一つの鍵になるなという気がしています。

 

 

 

 

 

今日もお読み頂き、ありがとうございます。キラキラ