今なお、放射能汚染が収束していない現実ーーー。

語弊があるかもしれませんが、

なんだか、これが現実とは思えない時があります。
へんな夢でも見ているのではないかとーーー

皆さんも、そんな風に思われる瞬間、ありませんか?



汚染がひどい地域の方たちには
即刻避難して頂きたい、

その気持ちも本当なのですが、

このアレクセイの泉のお話もまた、
真実だと思うのです。


意識の在り方が
ぴたりと宇宙の意志と合っていれば、

こんな「奇跡」は起こるのだろうな。。。と。


アレクセイと村のご老人たちの在り方は、
「これから」の
私たちの在り方のヒントになるのかもしれませんね。。。


下記の転載分、
お時間のある時にでもじっくりと
堪能して頂けたらーーーと思います。


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 生まれ育った土地に住み、働いて、
 そこに住む人々を助け、ある時は助けられて、静かにたんたんと生きていく。

 ティーンエイジャーだった頃は、そんな生き方、
 退屈きわまりない!と、思っていたけれど、
 すっかり大人になった今は、それこそが理想的な生き方だなと、
 憧れすら抱くことがあります。


 そんな理想郷が、この映画「アレクセイの泉」の舞台です。

 雪深い、美しい針葉樹の森を抜けると、その村はあります。

 まだ薄暗い朝、村人たちが、共同の泉にやってきて、水を汲み、
 ある者はバケツに、もう少し力のある者は、天秤棒に二つの桶をぶらさげて、
 バランスを上手く取りながら、ゆっくり水を運んでいく。

 カメラは、一軒の家の中に入っていきます。

 農閑期、家族全員が静かに、家の中で過ごします。

 75歳のイワンは、得意のカゴ作りを、
 70歳のニーナは、糸をつむいだり、機を織ったり、繕い物をします。

 彼らの末の息子、34歳のアレクセイは、暖炉のそばで読書にふけっている。

 風の音、森の木から雪が落ちる音、水の音、薪が燃える音、猫の鳴き声、
 それらの静かな音を背景にした、充足した光景は、まるでおとぎ話のよう。


 しかし、これは、おとぎ話の村ではありません。
 地図から消された村、ベラルーシ共和国ブジシチェ村なのです。

 1986年4月26日、ウクライナのチェルノブイリ原子力発電所の大爆発によって、
 最も深刻な放射能汚染の被害にあった地域にある、小さな村。

 実際、この村の美しい森は、チェルノブイリと同じぐらい汚染されており、
 60キュリーから150キュリーの放射能が、検出されています。

 事故直後、40キュリー以上が、強制移住として指定された地域だったので、
 汚染度はかなり深刻で、当然、この村に住んでいた約600人の人々は、
 別の地域へ移住していきました。

 現在、この村に残っているのは、55人の高齢者と、
 ただ一人の若者、アレクセイだけ。


 彼ら56人も、この村を出ていくことを、何回も何回も考えたはずです。
 けれども、どうしてもこの村を捨てていく気にはなれなかった。

 それは、あの泉の水があるからです。

 ジャガイモ畑も学校も、あらゆる土地が汚染されているにもかかわらず、
 何と、この泉の水からは、まったく放射能が検出されないというのです。


 高濃度に汚染されている森で採れるきのこも、
 『絶対に食べてはいけない』と何度警告されても、その時期になると、
 森に入り、採取し、
 ちゃんと泉の水で洗ってから、食べたり、
 保存食用に瓶につめたりして、森の恵みをしっかりいただきます。

 村人は、この泉を「百年の泉」と呼びます。

 「この水を飲んでいれば大丈夫」と、老人は言います。

 「あの泉のそばには、神様が立っている」と、言うのです。

 だから、"リンゴ祭り"、"秋の収穫祭"、"冬の十字架祭"と、
 季節ごとの祭りはすべて、この泉で執り行います。
 ここは、水を汲むだけの場所ではなく、村人の心のよりどころなのです。


 この映画が撮られた2000年、ほぼ10年ぶりに、
 司祭がやって来ることになり、
 女達が、2年も前から、やいのやいのと言っていた、
 腐りかけていた、泉の木枠の修理を、じいさん達が渋々始めるところが、
 この映画の中でも、とても楽しいシーンです。

 平均年齢71歳の5人衆は、森に入り、適当な大きさの木を切り倒し、
 泉まで運び、斧と鋸だけで、どんどん木枠を修理していく技と姿は、
 なかなかの男っぷりで、かっこいい!

 もちろん、力仕事がある所に、アレクセイは必ずいます。

 村でたった一人の若者なので、ちょっとした力仕事から、
 収穫時の、コンバインの運転や、トラクターの修理など、
 困った時は、誰もがアレクセイに声をかけます。
 アレクセイは、その助けの声に、イヤな顔一つせず、
 当たり前のように、黙々と仕事をします。

 アレクセイもまた、泉と同じように、村人の心のよりどころなのです。

 しかも彼は、とてもやさしい。

 馬や犬や、カエルと遊ぶ時も、笑顔で話しかけ、
 十字架を作るために、木を切り倒す時も、そっと「ごめんね」と声をかける男です。

 その姿を追っていると、宮沢賢治の詩の中に出てきそうな、
 聖者のように思えてきます。


 アレクセイは、小児麻痺の後遺症のため、動作が少しだけゆっくりです。
 それが理由なのか、年老いた両親を残しておくのがしのびなかったのか、
 この村に残りました。
 彼は、その理由をこう語ります。

 「村で生まれた者は、たとえ町へ出て行っても、いつも村に心を寄せている。
  運命からも、自分からも、どこにも逃げられない。
  だから、僕もここに残った。」


 誰かの力になること、助けることは、つまるところ、
 助けられることと、同じなのかもしれません。

 老人たちを助けることで、アレクセイもまた、生かされている。

 そうやって人は、助け合うことで、共に生きていく。

 祭りの時に、ばあちゃん達が、輪になって踊る時の、あの喜びの笑顔。
 共に生きることのすばらしさで、ほっぺたがピカピカに輝いています。

 その喜びの中心に、こんこんと湧く、泉があるのです。



 その泉の存在を、神がいることの証だと、思う人もいるだろうし、
 奇跡だと、思う人もいるでしょう。

 わたしは、この泉に、命の源泉のようなものを感じ、
 体のずっと奥の、深く静かな部分にある何かと、共鳴するのを感じました。

 それは、誰にも触れられない、
 自分でさえ触れたことのない、赤ん坊の時のままの何かで、
 普段のわたしの生活では、ほとんど思い出すこともない、
 命の力が、呼び覚まされる体験でした。


 「泉の水が僕の中に流れ、僕を引きとめている。
  泉が人々に故郷に戻るよう、引き寄せているのだろう。」

 アレクセイは、こうも語ります。
 心の中の泉を信じ、諦めて生きることのすごさ、
 目の前の現実を受け入れて暮らしていくことのすごさに、
 胸うたれる映画です。

                      




*こちらから転載させて頂きました。有り難うございました。(10年経って確認してみましたら、なぜか心当たりのない中国語のサイトに飛んで行きましたので、リンク先は削除致しました。ご了承下さい。2021年5月当ブログ筆者)


「放射能に汚染されない湧き水」過去記事です。








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