その時は、俊太郎さまが手ずから書いたものが残っていて、それを写真とは言え、目にすることが出来た感動で、何と書いてあるのだろう?くらいに留まってました。
何かの文とかかしら?くらいに思っていたのです。
勿論知りたいとは思いましたが。
何はともあれ、俊太郎さまが書いたものが遺されていることのほうが重大で、嬉しかったのです!
その存在を知り、それを目に出来ることの幸せが勝ったのです。
でも、このたび、古高俊太郎遺徳顕彰会を預かる古高町自治会の副会長さまの御好意で得た資料、伝記「古高俊太郎」の記述を見て、知りたいと思った、書かれていることの意味が判ったのです!
全文ではありませんが、大きく書いてある6文字。
それは、論語の中の言葉でした!!!
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俊太郎の遺墨のうち、わが古高部落の古高信一氏宅に残っているのに「徳不孤 必有隣」論語の里仁第四の句がある。俊太郎は 論語のこの一句を処世訓とし、信条として生きぬいてきたのである。その句のとおり多くの同志が俊太郎を盟主として集ったのである。「吾十有五にして学に志 し」と孔子はいったが、俊太郎もその年頃から梅田雲浜について自己の使命を学びとったのである。(略)
伝記「古高俊太郎」より抜粋
(昭和39年5月19日発行 著作者:滋賀県野洲郡守山町大字古高 古高俊太郎先生遺徳顕彰会 会長 高田文 太郎/執筆:寺井秀七郎)
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論語に詳しくない私は、すぐさま、調べましたとも!
その意味たるや、俊太郎さまの魂に触れられるような、衝撃的というか、感動の6文字だったのです!
まさに、この6文字こそ、俊太郎さまがきっと信条とされたお言葉だと思えるような内容でした!
身分を変え、名を変え、暗躍なさるおりに、つらいことも多々あったでしょう。
つらいなんて言葉は、生易しいほど、きっと様々なことがあったはず。
そんな時、耐え忍びお役目を全うするべく志に生きるにあたり、この論語の言葉こそが、俊太郎さまの支えになったのではないでしょうか?
きっと、これをご覧になられたら、俊太郎さまを愛する方なら、その心の中に在ったものを少なからず、感じ取れるはず!
では、ご覧あれ☆ (クリックor選択で拡大画像を是非ご覧くださいな)
※画像の転載盗用等禁止!!無断での使用は固くお断り致しております。
個人での鑑賞用の保存は、ご自由に☆
古高俊太郎 遺墨 『徳不孤 必有隣』
(故・古高信一氏 所蔵)
画像:昭和39年5月19日発行「古高俊太郎」より
著作:古高俊太郎遺徳顕彰会 会長 高田文太郎氏
執筆:寺井秀七郎氏
画像:平成11年11月11日発行「古高町民誌」より
発行者:滋賀県守山市古高町自治会
※資料提供:古高俊太郎遺徳顕彰会
(滋賀県守山市古高町自治会)
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『徳不孤 必有隣』
-論語・里仁編第四の二十五-
漢文
子曰、徳不孤、必有鄰。
書き下し文
子曰わく、徳は孤(こ)ならず。必らず隣あり。
※『徳不孤 必有隣』とは、論語の言葉で、訳に関しては様々な意見があるようです。インターネットで検索して見つけた大意を参考までに、記事の下部に掲載、ご紹介させて頂きますので、良ければご参照ください。
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俊太郎さまの過ごされた日々、お役目を全うされるべく懸命に在った日々。
今、『徳不孤 必有隣』の言葉と意味を胸に俊太郎さまを改めて想うと…この論語からの6文字は、深い意味をもって俊太郎さまの中にあったのだと思います。
大願を胸に、志に生きると決意なさった俊太郎さま。
幼き頃より、父君周蔵さまからの勤王思想の教育を受け、梅田雲浜を師として学んだ俊太郎さまが、その道をゆかれることは自然なことだったのかもしれません。
ですが、選ばれた道が容易ではなかったことは解ります。
激動の時代、風向きが厳しい時のほうが多かったはず。
変革を目指し歩まれる、そのための道の途には、きっと色んな方が居て、それでも目指すものの為に、時に自分の感情を殺し、相手を信じ、思いを同じくする方を募り、それでも、時に方向性や主張は異なり、葛藤もきっと沢山あったであろうこと。
それでも愚痴をこぼすだけでは変わることない現実を、ただよりよく、少しでも最善をと日々努めて過ごし、自分に出来る事を、時に自分を犠牲にしても続けてゆかれ、大きい視野で全体を見ようと努めていらしたであろうこと。
そのための耐える強さ、時に優先させるべきものの為、大切なものを切り捨てる決断力と覚悟をお持ちであったろうこと。
それでもきっと相手を想う優しさは殺せずに、きっと沢山悩まれたであろうこと。
賭けるものは命と心。
そんな時代に、多くの方に慕われ、助力を乞われ、信頼されて。
それは真面目で約束を違わぬ誠実なお人柄ゆえでしょう。
けれども、失敗や間違いは誰かの命や人生に直結してしまう中、それでも判断し、決断し、選択を続けてゆかれたことを思うと、なんと過酷なことかと胸が痛むこともあります。
環境の違いとは、時代の違いとは、とてつもなく大きいものだと、つくづく思います。
志に生きた崇高な魂の方だからこそ、きっと自分の感情など後回しで、相手への苦手意識とか拒否感、疑問や不満なんて全部飲みこんで、或いは、その問題を解くべき為にするべきことをしたのでしょう。
私心を捨てて、最善の最短を選ぶべく努力なさっていたお方、そんな気がします。
そうして、最善を尽くす為の努力なら惜しまなかったのだろうなぁと。
ご自分が苦労してもいいから最良の結果を出すべく、成功へと繋げるべく、きっと細心の注意で粉骨砕身なさったのでしょうね。
それでも、俊太郎さまだって、私たちと同じ人間。
迷いもすれば、悩みもする。
不安に思うこともあったでしょう。
何かを決断するということは、何かを選ぶこと。
選ばれなかったほうからは、きっと心ない言葉を浴びたことも恨まれたこともあったでしょう。
先を見通すような、聡明な方だからこそ、きっと、大きな視野で見ていたからこそ、時に感情を殺し、眼の前のことより大勢を見極め、行動を決められたかもしれない。それを理解されないこともあったかもしれない。
そんな時に、きっと、この言葉を心に引き寄せ、自分に言い聞かせていたのではないでしょうか。
そんなふうに思えば想うほど、胸が締め付けられて。
そして、そんな俊太郎さまを思うほど、自分の人生を生きるにあたり、その背を追い、その崇高さを見習いたいと思うのです。
今回遺墨に出逢い、支えともいえるような、指針を貰ったような気になりました。
つい最近、私の在り方が俊太郎さまに似ていると言って頂いたことがあります。
「人と人を繋げて、信頼して、目的に向うその姿勢は、時代は違っても古高さんと似ているなぁと。もちろん環境が違うけれど…古高さんもまた、人と人を繋げる役目でもあったでしょう。きっと自分で話して見て信じて…生き抜いたんですよね。」
そんなお言葉を頂きました。
最近思い悩み葛藤することが多く、思いつめることも多くて。
そんな中、初期に出逢った方が今もこうして見守っていて下さること、
その存在は、とても温かく優しいもので有難かったです。
「ずっと古高さんの役目とかその重みとか……考えていたの。あの混沌とした時代で誰が味方か分からないよう
な中で、古高さんを頼りに誰もが集ってきたのでしょう?月祈さんの言うように判断一つで全て無になるかもしれない、誰かの命を奪うかもしれない、それで
も……間に立ち続けた。相手の事を、そのまた向うの相手の事をきっと考えた。」
「それと、月祈さんの今の姿が重なるのは必然だったのかもしれない。」
凄く、恐れ多いけど、でも、なんだか、凄く俊太郎さまの葛藤が解る気がして。
勿論俊太郎さまが抱いた葛藤の何分の一とか、もっと小さな単位でしょうけど。
それでも、このお言葉はとても胸に温かく響き、俊太郎さまを思うことで、今抱える問題が消えたわけではないのに、なんだか乗り越えられるような、向き合う為の気力をさらに頂いたような気がしました。
全ては繋がり、継がれてゆくのかもしれない。
遥かな時を経て、俊太郎さまの生きざまとか、お心の在りようを思えば、私もまた頑張れる。
俊太郎さまに出逢えて、本当に良かった。
私が想う俊太郎さまは、本物とは違うのかもしれない。
俊太郎さまが遺された欠片を集めて、俊太郎さまに関する記述とか言葉を、ひとつずつ拾い集めて、少しずつその輪郭を探って、想像して、そこから、得てゆくものだから。
それでも、私は、古高俊太郎という人物に惹かれるし、敬愛しています。
それが独りよがりだと言われてしまうこともあるかもしれないけれど、それでも、好きなものは仕方ない。
胸をはって言える気持ちだから。
私は、これからも地道に俊太郎さまを調べ、教わり、知り得たことを沢山の方に伝えてゆきたいし、俊太郎さまの遺徳顕彰にも関わりたい。
次回は、俊太郎さまの和歌について☆
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伝記「古高俊太郎」(昭和39年5月19日発行 著作者:滋賀県野洲郡守山町大字古高 古高俊太郎先生遺徳顕彰会 会長 高田文 太郎/執筆:寺井秀七郎)の表紙には、古高俊太郎さまの遺墨の署名の文字を使用されています。
遺墨の写真には、二つ署名がありますが、写真左側の小さいほうの署名のものだと思われます。(推測)
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◎良ければ、ご参照ください。
※以下、インターネットで検索して見つけた訳を参考までにご紹介。
※ソース元が判る分はご紹介してますが、複数のブログ等で使いまわしされて、
ソースが判らないものは、解釈のみ載せます。
『徳不孤 必有隣』の大意
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徳不孤 必有隣(論語)
徳は孤ならず 必ず隣有り
本当に徳のある人は孤立したり、孤独であるということは無い。純一高潔な人や
謹厳実直な人はとかく近寄りがたく敬遠されがちなこともあるが、しかし、如何に
峻厳、高潔で近寄りがたいと言っても真に徳さえあれば必ず人は理解しその徳を
したい教えを請う道人や支持するよき隣人たちが集まって来るものである。
(中略)
人はおうおうにして、自ら学び得たことや、技量が世間に
省みられず、認められないことは耐え難いことである。
ところが、それまで己の主義主張や心操を曲げて、世間に
妥協し世間に迎合してしまいがちになることも少なくない。
しかし、意志堅固に道を求め続け、学において究め続けて
いれば、身に光は備わりおのずから理解者は現れ、支持する
人も出てくるものなのだ。
陰徳陽報ということばがあるが、目立とうが当が目立つまいが、人の嫌がる
ことや、避けて終いがちなことでも、喜んでさせていただく下座行、陰徳の行を
修めることによって自ずから身に光は備わり徳は高まり、人々は慕い集ってきて
孤にしてはおかないものである。
安延山 承福禅寺
住職 埜村 要道さま
今月の禅語の記事より抜粋
http://www.jyofukuji.com/10zengo/2005/11.htm
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「徳の備わっている人間は孤立する事は無い。必ず仲間がいるものだ。」
解釈:人格者には友がいる、または友と語らい自らを高める。
ちょんまげ英語日誌
へいはちろう 様
「論語 里仁第四を英訳」の記事より抜粋
http://blog.mage8.com/rongo-04-25
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「徳というものは、身内のなかに学べるものであって、それを絶った孤高のものではなく、人とのつながりというものがあって、はじめて学べるものなのですよ」
古典の名言・名句集―哲義繙無碌(Tetugi-han-blog)☆
遇宮流山人 様
「論語を読む:徳☆愛国心、品格のベースとなる要素の一つ」 の記事より抜粋
http://sentetu.blogspot.jp/2007_02_01_archive.html
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善き行いをすれば、きっと仲間は出来る、絶対に孤独にはならないとの事です。
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徳のある人間にはそれを人に広める義務があるのだから一人でいてはいけない
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『子曰、吾十有五而志乎學、三十而立、四十而不惑、
五十而知天命、六十而耳順、七十而從心所欲、不踰矩』
‐論語・為政第二の四-
漢文
子曰、吾十有五而志乎學、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而從心所欲、不踰矩。
書き下し文
子曰わく、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(した)がう。七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず。
現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「私は15歳の時学問を志した。30歳の時に学問で身を立てる事が出来るようになり、40歳で学問に対する迷いがなくなり、50歳の時に自らの天命を知っ
た。そして60歳の時には人の言葉を偏見無く聴く事が出来るようになり、70歳になったら自分の心のままに行動しても人道を踏み外す事が無くなった。」
へいはちろう 様
「孔子の論語 為政第二の四 七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず」の記事より抜粋
http://blog.mage8.com/rongo-02-04