美人なお友達から荷物が届いた。
先に「荷物を送る」と連絡があったので、送られてきたことには別段驚きはしなかった。けれど…
品名が「お菓子」になっているのはなぜ?
送ると言っていたのは、使い古しのバッグの筈。
じじいの密かな趣味である「皮工作」の一助にと使い古しのバッグをもらい、それを分解して型を勉強して、見返りに完成したバッグを送る…のかな?
まあ、見返りがどうなるかは後々考えるとして、そんな訳でバッグが送られて来る筈なのに「お・か・し」?
開けてみたらこんな…
明治のカール4袋とバッグが1つ。
「緩衝材としてお菓子を入れておきましたー」ってところか?
明治のカールは西日本でしか販売していないので、最近そちら方面に出かける機会のないじじいには何よりのお土産だけれど、これでは「バッグを送ってもらうついでに歌詞菓子(*1)も送った」なのか「カールを送るついでにバッグも忍ばせた」なのか分からないね。
送ってもらったので、ありがたくいただきましたよ。
東日本在住で、しばらくカールを見ていない人は、これを見て懐かしがってくれ。
ほれほれ
よだれ出て来るんじゃね?
軽い食感、いつまでも食べられそうな味。
堪能させていただいた。
美人なお友達、ありがとう!
紅茶
カールのお供に紅茶でも…と思って、一番気軽に飲めるリプトンのティーバッグで紅茶を…
他のティーバッグが軒並み500円弱の中、このリプトンだけがほぼ半額。
「まあ、紅茶は色と味がついていれば良いんだい」と割り切っている(注)じじいだけれど、この安さが「何で?」と引っかかってはいたけれど深く追求はしていなかった。「飲めれば良い」と割り切っているものに時間を割くのは無駄だからな。
ティーバッグを取り出して糊付けされた糸を解いて湯の中に…入れようと思ったら袋が破れて中身が溢れていた。糸が思いの外強く接着されていて、剥がした時袋を破ったみたい。まあ、安かろう悪かろうと思えば仕方のない損失かな。
溢れた茶葉を見て安さを納得した。
ティッシュペーパーの上にまとめた茶葉がこれ。
本当に茶葉?
状況を知らなければただのゴミに見えるよな。
もしかして、これはこれで立派な「なんちゃら製法」というものなのかもしれないけれど、お茶の葉を摘み取って乾燥させてとか蒸してとかそんな工程を経た茶葉をくるくる巻いてできるのがお茶。
そんな茶葉がこんな埃のようなサイズで「正しい」とは思いたくない。
とはいえ、もしその「なんちゃら製法」なのであれば、じじいにはそれを抽象中傷(*1)するつもりは毛頭ないことはお断りしておく。
単にその埃の如き小ささに驚いているんだと理解してくんねぇ。
爪楊枝と大きさを比べてみるとこんな感じ。
茶葉というより粉茶みたいな感じの大きさ。
さらに拡大してみると、一応粉茶ではなく、茶葉が丸まってはいる様子が見えた。
でも、これを見ちゃうと、素直に「紅茶」と呼びたくなくなるよ。
勝手な想像だけれど「もう少しまともな価格の紅茶製造ラインで、茶葉が擦り合った時に砕けて(*2)こぼれ落ちたものをキャッチしてまとめてパックにしました!的なお茶」なんだろうな。
うん、それでもきちんと味も色も出ているし、安く販売できるなら「有り」と思うよ。
単に「やすいりゆうがわかった」と言うだけ。
これからも利用させていただく所存。
でも、ちょっとまともな紅茶も買い足そうかなと思えたよ。
カールと美味しくいただきました。めでたしめでたし。
注)紅茶への割り切り
じじいがまだ小学生の頃から兄と一緒に紅茶に傾倒した。中学、高校時代もそれは変わらず、海外との交流もあった為、あちこちから紅茶を送ってもらっていたので、下手な店より紅茶の品揃えは豊かだったと思う。
そんな中で兄と競うようにお茶をうまく入れる方法を探した結果、最終的に淹れたお茶の銘柄、湯の温度、抽出時間くらいは当てられるのが当たり前になった。
が、基本的に紅茶はそのままでは水が硬質すぎて飲めない土地で、何とか水を飲む手段でしかない事な(*3)んだよ。
「◯℃の湯で△分抽出以外認めない」なんて愚の骨頂。
適当に茶葉と湯を入れて適当に抽出。適当に飲んで、苦かったらミルクとか入れたらいいじゃない…これが正しい飲み方と悟りを開いたという次第。
確かに淹れ方や茶葉に拘れば、それなりの風味や味を楽しめる。でも、それって必要?
基準があってこそ初めて「より美味しい」とか比べられる訳で、初めて出された物を食して、それの良し悪しなんて分かる?
むかし話として、あるコーヒー屋さんで「ブルーマウンテンです」(*2)と言って普通のブレンドコーヒーを出したら多くの人が「ら(*3)さすがブルーマウンテン」とありがたがっていた。なんて話があるけれど、紅茶だってそうだよね。
普段飲み慣れていないところに「高級な茶葉で出しました」なんて言われたって、多くの人は無条件に有り難がるだけで、実は味なんてわかっちゃいないだろうって事だよ。
じじいは、昔はどこぞの王室御用達という1杯1万円位になりそうな茶葉を入手して飲んでいたこともあるが、もう何年もそんな高級な茶葉は触っていない。何十種類もの茶葉をストックしてお茶屋の如く毎日毎回茶葉を変えて飲んでいた時代もあったけれど、それも遥か昔。
そういう経験でのじじいなりのうまい、まずいの判断基準点はあるけど、そんな面倒臭い判断を毎日の日常生活で繰り出したくはないな。
じじいは茶葉にも入淹(*1)れ方にも拘らない。
「美味しいお茶の淹れ方」なんてどうでもいい。
(それを職業としている人には申し訳ない。でも、じじいは職業にしていないからね)
色と味がついたら気軽に飲んだら良いんだよ。
それがじじいのお茶スタイルなんだ。
大半の茶は適当に入淹(*1)れてもそれなりに味がする。そこまで不味く淹れられる事はない。ほぼ絶対にと言い切れるくらいにね。
だから、気軽に淹れて気軽に飲むのが正解なんだよ。
今は摂取量が減っているらしいけれど、日本人なら誰でも食べる「お米」「ごはん」を毎日、毎食「これは美味い」とか評価しないのと一緒だよね。
旅行に行った先、外食した店などで時々とてもまずいご飯に出くわすことがある。「これって古々々々々々米?」と疑いたくなるくらい、炊飯をした後でも灰色で艶のない米粒、湯気と共に立ち上る気持ち悪い臭い…これは食べたらあかん!そんな殺気が茶碗全体から立ち上るご飯を今までに数回経験している。いずれも東京都内の安さ自慢のチェーン店だった。
そういうものは味わう必要もなく食べない。けれど、そこまでではないものは「まずいなぁ」と思いながら流し込むか残すかを判断する。その程度の判断でいいんだよ。「この飯は粒を揃えたのち、地下50m以上の深さから汲み取った地下水で3回すす研(*1)いで、その後釜を薪で炊いて、仕上げに丹波の(*2)田んぼで取れた藁をひとつまみ…」とか能書きが活躍する場面なんてないんだよ。
お茶もご飯もその程度の気軽さが一番ってこと。
*1:2024/06/17 00:38 誤字訂正
*2:2024/06/17 00:38 文章(文字)挿入
*3:2024/06/17 00:34 冗長削除