私の父は国鉄職員であり、当然のように「国鉄労働組合」に入っていました。私も当然のように、国労に加入していた父の影響で、当時の日本社会党を支持していました。


父は当時の駅長と何かトラブルがあったのか、或いは若い職員を「教育」していたのか、そのあたりは分かりませんが、多度津駅の第1助役から、財田駅の第2助役に左遷されました。はっきり言ってラインから外され、自分より年若い駅長に使われる身でした。本人は退職しようとも考えたが、私と妹がまだ学校に行っていたために、それも断念しました。本人によると、「君は助役なのに組合的な発想が過ぎる」と言われたそうです。


最後は予讃線の下灘駅の駅長で終わりましたが、どうも私には父親の血が色濃く残っていたようです、


私は役場に入って6年後に、どういう訳が、町役場の職員組合の書記次長にされました。それからは1年間、相当に無茶なこともやりました。アジビラもまいたりしたものです。


そんなことで、おそらくラインから外されたのでしょう。税務課の徴収係になりました。滞納者の家までおしかけ、税の徴収を行いました。このころが一番充実していたように思います。約13年くらい税務課にいましたが、最後は固定資産税の課税係になってしまいました。


この時期に職員組合の委員長にされました。役にもたたない委員長でした。しかも執行委員で異動にあったのは、私だけでした。当局には組合潰しの意図があったかどうか、今でも私にはわかりません。


この頃の自治労香川県本部は社会党の青年組織である、社会主義協会に牛耳られていました。しかし話していることが、現代資本主義の分析や内容ではなく、三井三池争議の話を聖典化したような話で、私には違和感しか残りませんでした。


そうこうしているうちに、依願退職に追い込まれました。組合活動が理由ではなく、筆禍事件が原因でした。今、考えると、あんなに無茶を書くこともなかったように思います。しかし当時の理事者たちには、今でも私は怨念を持っています。絶対に許せません!


この頃、県議会の野党は社会民主党出身者が占めていました。すべて私が知っている人でした。問題は彼らが立憲民主党が成立してから、雪崩をうったように立憲民主党になだれ込んでしまいました。


これでもう社民党は終わりだ、とおもわざるを得ませんでした。そうなると、話が出来るのは、町議会にいる共産党議員しかいません。父もなくなりましたから、共産党に接触するのも障害はありません。そしてその町議の人は国労出身で、私の父と10年くらい同じ駅で勤務したことがあり、私と全く無関係というわけではなかったのです。


電話て「父が亡くなって、政府や自民党を批判するような人、私が甘えて話のできる人は、あなただけになりました」と述べたと記憶しています。もちろん「しんぶん赤旗」の読者になりました。入党は、私の病気のことがあるため、保留となりました。


そんな訳で、私は現在、日本共産党を支持しています。学生の頃、共産党の青年学生組織である「民青」とは、激しく対立していた私ですが、この田舎で改革スピリットを持っているのは日本共産党しかありません。私はそう考えでいます。