10・8羽田闘争の様子
この日、当時の佐藤栄作首相がベトナム戦争の一方の当事者である当時の南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン市)を訪問するため、羽田空港から出発しようとしていました。
前年に結成された三派系全学連(マルクス主義学生同盟中核派、社会主義学生同盟、及び社会主義青年同盟解放派)や革マル派(マルクス主義学生同盟革命的マルクス主義派)、1960年代前半に日本共産党から分かれた構造改革派は、前日から中核派は法政大、革マル派は早稲田大というように、各拠点校に泊まり込み、翌日に羽田空港付近で反対集会を開きました。
当日の午前中、社学同の部隊が鈴ヶ森ランブの機動隊の阻止線を突破したという知らせが、各派の集会中に届いたため、各派の集会は早々と打ち切られ、その後羽田空港へと向かいました。
三派系全学連は弁天橋で機動隊と衝突、警備車1両を奪います。「すべての学友の皆さんはこの車に続いて空港の中に進撃して下さい。」との声が拡声器から流れました。
同じ頃、稲荷橋では革マル派が機動隊と衝突、構造改革派も独自の闘いを展開しました。
その結果弁天橋で、マル学同中核派に属していた、京都大学文学部1回生の山崎博昭君(当時19歳)が死亡。死因については現在にいたるも見解が対立しています。また当日の逮捕者は76名でした。警官隊の負傷者が648名と多数であるのが注目されます。
この日の闘争は、初めて学生達が機動隊に対してヘルメットや角材を使用した闘争とされています。しかし角材は、すでに各派内の内ゲバでは使用されており、ヘルメット姿も1965年の日韓条約反対デモの時に、一部で使用されていました。
この時以来のヘルメットにタオルという服装は、1960年の三井三池闘争の影響があったように思います。この闘争の報道写真を見れば、すでにヘルメットやタオル姿の労働者を見ることが出来ます。この闘争を支援に現地に行った学生達から、ヘルメットやタオル姿が広がった可能性があります。
しかしこれらの「武器」が権力=機動隊に向かって使用されたのは初めてのことでした。当時の機動隊には現在のようなジュラルミン製の大盾が装備されておらず、投石等により学生達に押され気味でした。この状況は翌年の佐世保エンターブライズ入港阻止闘争の頃まで続きます。また67.68年頃の街頭闘争では、多くの市民の支持や支援がありました。
また、10・8羽田闘争の報道写真を見れば、ヘルメットと角材姿は一部の学生に使用されていましたが、まだノンヘルにブラカードという1960年代前半の闘争形態の部隊もありました。ただブラカードの板の部分を取ると、角材に変わる仕組みになっていました。
またこの頃の闘争では、川に落ちた機動隊員が学生に助けられるなど、現在では見られない牧歌的風景が見られました。
この日、日本共産党とその青年学生組織の民青同は、羽田空港へ抗議団を送ったのみで、一切の闘争を放棄し、多摩で「赤旗祭り」に興じていたことは、よく知られています。
この日から1972年2月の連合赤軍による、あさま山荘銃撃戦まで約5年間、暑い政治の時代が続きます。