その4.太平洋を渡った人々
 
 
 
羽原又吉氏は戦前から、学界がまったく目を向けることのなかった漁業史の分野を、ほとんど独力で開拓し、自らの調査を通じて採訪した文章・記録に基づいて、多方面にわたる膨大な研究を発表された、文字通り希有な研究者である。その仕事の多くは敗戦後、岩波書店から刊行されたが、晩年に近くまとめられた『漂海民』(岩波新書、1963年)は海を移動する人々について、日本列島のアマ、家船から南海の漂海民、珠江の蛋民にまで視野をひろげ、漁民の活動を豊富な事例に基づいて記述しているが、その中で羽原氏は紀州の串本、潮岬、大島などの漁民が、戦前まで毎年、オーストラリア沿岸に貝類採取の出稼ぎ漁業を行っていたことにふれ、その出稼ぎは「調べてみると明治以前にさかのぼるのである。鎖国を続けていた江戸時代の日本では、おどろくべきことである。生米をかじり、雨水を飲みながら、嵐のない時期に何日間もかかって、オーストラリア沿海まで航海を続けたのである」とのべている。(同書52~53頁)
そしてその船は富山湾の漁民が「エゾ通い」に使っていた船と同型の「大和船」で、乗り組んだのは男だけで、真珠をもって帰国すると、それをひそかに広島方面の仲介者に渡し、真珠は「博多で中国人に売却された」と羽原氏はのべている。
これが事実ならば、まことに驚くべきことといわなくてはならない。羽原氏はこれに関連して、江戸時代初期からその活動を確認しうる潮岬を中心とした漁民の連合体、下田原から周参見(すさみ)までの十八ヶ浦で組織された潮岬会合に言及し、大島・串本辺の海民が御崎明神を信仰の中心として、いかに広域かつ活気あふれた活動を展開していたかについて論じた論文の参照を求めている。(羽原又吉「紀伊国潮岬会合」『日本漁業経済史』中巻ニ、第ニ篇第十八章 岩波書店、1954年)




    (略)



この潮岬会合に関する文章は、1946年の南海大地震に伴う大津波によって、すへて流失したとも伝えられているので、もはや手がかりはないのかもしれないが、私は(略)紀州の海民が江戸時代からオーストラリアに渡航していたことは、十分ありうると考え、なお資料を追求したいと思っている。
 
(67.68.69ページがから抜粋)
 
 
 
ここには戦前からの漁業史の研究者により、紀州の潮岬や串本の漁民が、鎖国中の江戸時代に、オーストラリア沿岸まで航海を続けて、貝類や真珠を持ち帰っていた可能性について書いています。
 
 
おそらくオーストラリア沿岸とは、真珠の産地であるアラフラ海付近を指すものだと思われます。
 
 
残念なことに、実証可能な資料が見当たらないのが残念です。羽原氏が、いかなる調査から、そのような結論を得たかが知りたいところです。しかし事実としたら、網野氏も述べているように、まことに驚くべき事実です。