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マラー(1747ー93年)


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ダントン(1759ー94年)


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サン・ジュスト(1767ー94年)


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ロベスピエール(1758ー94年)


1793年に入り、革命は最高潮に達します。国民議会においては、1793年6月に民衆が国会を包囲し、ジロンド党の議員を追放しジャコバン独裁が完成します。



この両党の違いは「エリート指向」と「民衆指向」の2つに分けられます。また「パリ中心主義」と「地方分権主義」に分けられます。ジャコバン党は中央集権化を、ジロンド党は地方分権化を指向していました。



このころのフランスはプロイセン軍やオーストリア軍の干渉を受けていました。



先ほども述べた。民衆の国会包囲によりジロンド党は追放されます。ジロンド党員は、教養のある人たちでしたが、民衆とは一線を引いた部分があり、そこが命取りになります。



同年の7月から12月にかけて、ジャコバン党の革命政府が完成されて行きます。7月にはロベスピエール、サンジュスト等から「大公安委員会」が成立します。



1793年秋から恐怖政治が始まります。この時期から1794年7月の「テルミドールのクーデター」までが恐怖政治の時期と言えます。



この間の、シャルル・アンリが指揮するギョッチーヌによる処刑は、ますます盛んになります。



1793年10月16日日には、前王妃のマリー・アントワネットの処刑が行われます。その14日後にはジロンド党の指導者20人が処刑されました。20人を処刑するのに43分かかったそうです。



1793年11月5日には、ルイ16世の従兄弟になる元オルレアン公が処刑されます。王族であるということでギョッチーヌを逃げることは出来ませんでした、処刑対象者の数の増加にギョッチーヌがついていけなくなってしまいます。



同年12月8日にはルイ15世の寵姫であった、デュ・バリー夫人が処刑されます。



ギョッチーヌは次から次へと犠牲者を求めて行きます。1794年3月24日にはエベール他17人が、さらに同年4月5日にはダントンが処刑されます。この時期になると、ジャコバン党内の党内闘争の様相を呈して来ます。



だいたい平均して1日に20人から40人が処刑されています。これらをすべて、シャルル・アンリがこなしていたのです。




そして同年7月28日には、ロベスピエール本人が処刑されます。「そして誰もいなくなった。」状態になります。これ以降、革命広場からギョッチーヌは撤去されます。



明らかに恐怖政治には飽きが来ていました。シャルル・アンリ自身は、自分が死刑執行人と言う立場から解放されるのは、死刑制度を廃止する以外にはないと確信するに至りました。



史上2番目に多くの人物を処刑した(第1位はナチスドイツの執行人、オルブレヒト)シャルル・アンリ・サンソンの考えの行き着くところは、ここに至りました。



その後、サンソン家は7代まで続きます。現在は出身を隠していますが、子孫もいるものと思われ、バリのモンマルトルの墓地にあるサンソン家の墓地には、今でも花が備えられているようです。