『オープニング・ナイト』

1978年アメリカ映画 144分

監督:ジョン・カサヴェテス

脚本:ジョン・カサヴェテス

出演:ジーナ・ローランズ ジョン・カサヴェテス 他


昨日観た「5時から7時までのクレオ」で感じた「女」の要素にもっともっと分け入り、煮詰めて煮詰めてギットギトにしたような作品。「クレオ」は素直に面白いと思ったけど、これはえぐい。それもまた面白いのだけれど、女の作り手ではここまでしない。というより、したくない。


監督のカサヴェテスと主演のローランズは夫婦なのだけれど、この作品を構成している視線は、化け物のような奥さんをそばで観察し続けた旦那さんにしか持ち得ないもの。こうした関係が成立するのは、紛れもなくこの二人が「理想の夫婦」だからなのだけれど、この作品を支えてる夫婦愛っていうのは、甘ーい新婚さんたちなんかビビリ上がらせてしまうような厳しさであり、容赦なさである。うへー。


新作の舞台に取り組む女優のマートル(ジーナ・ローランズ)は、自分にまとわりついてきた熱狂的な出待ちの少女が対向車線の車にはねられ、即死するのを目の当たりにしてしまう。以来、少女の幻影に取り付かれ、役をどう演じればいいか分からなくなる。酒に溺れ、精神の均衡を失ったマートルは失踪。舞台の続行も危ぶまれるが、マートルはふらふらのまま開演直前に現れ、アドリブで思いの丈をぶちまけながらも役を務め、喝采を浴びる。


もうホントに扱いにくい人種だよ、あーやだやだ女優なんて、と作家の私は思うのだが、マートルが何かと楯突く初老の女流劇作家サラ(ジョーン・ブロンデル)も反吐が出るほどイヤな感じである。己の化け物性を拠り所に仕事をしている、という意味で、マートルとサラにそんなに違いはない。そして紛れもなく私自身もそういう人種だから、見ちゃいられないくらい不快に感じるのである。


私が脚本を書いているということを人にあまり言いたくないのはそのせいである。「自分は表現者である」などと言うのは、「自分は化け物である」と言ってしまうのと同じだ。「表現者」という字面に憧れるほど幼くはない。私は化け物になどなりたくないのである。脚本を自己表現の手段などではなく、収入を得るための技術としてとらえようとしているのもそのせいだし、このブログに名前を晒さないのも同じ理由である。


しかし同時に、私は化け物である自分を否定すべくもない。何でか知らないがもうこれはしょうがないことのようなのである。今は脱皮の途中だが、おそらく私もマートルやサラのような腐れ婆になってしまうのである。そんな葛藤を表に出したりなどしないが、この映画は、冷酷なまでにそばにいる旦那の目線でそれを炙り出す。本当に恐ろしい。


ところで、「化け物だけど奥さん」もしくは「化け物だけどお母さん」っていうおばちゃん、アメリカには結構いる気がするけど(ジーナ・ローランズもそうだし、パティ・スミスとかモーリン・タッカーとかキム・ゴードンとか)、日本じゃあんまり思い浮かばない(樹木希林…?)。化け物的な人は女を捨てるか、あるいは奥さん、お母さんになる時に化け物をやめるか、という感じになってしまう気がする。カサヴェテスみたいな「肝の据わった旦那」があんまりいないってことなのかもしれない。


   少女が轢かれたのを目の当たりにした直後。

   動揺し、ホテルへ戻ったマートルと、

   俳優であり恋人のモーリス(ジョン・カサヴェテス)。

   もう行くと言うモーリス、マートルにキスをして、

モーリス「(マートルを見据え)君は僕にとってはもう女じゃない。女優(=プロフェッショナル)だ。君は何も気にしない。人間関係も、愛も、セックスも、人の感情も」

マートル「そうね」

モーリス「僕は端役だ。観客に嫌われる役だ。君を愛する余裕なんてない」

   マートル、一瞬、戸惑いの表情を浮かべるが、

マートル「おやすみ」

モーリス「ああ。おやすみ」

   去るモーリス。


★★★★★★★★☆☆