『電話で抱きしめて』
2000年アメリカ映画 94分
監督:ダイアン・キートン
脚本:デリア・エフロン ノーラ・エフロン
出演:メグ・ライアン ダイアン・キートン 他
タイトルはあれだけど、恋愛ものではなくて家族ドラマ。監督、脚本の名前からも明らかだが完全なる女性映画。
主人公のイヴ(メグ・ライアン)は、やり手編集者の姉ジョージア(ダイアン・キートン)、奔放な昼ドラ女優の妹マディ(リサ・クドロー、「フレンズ」のフィービー!)に代わり、ボケかけた老父(ウォルター・マッソー)の世話を一人でやっている。手のつけられない父のありさまにキレそうになり、姉妹ともぶつかるのだけれど、最後はその絆を確認するという話。
イヴのきりきり舞いを見ていると母のことを思い出す。三人も姉妹がいると、逃げ遅れキャラというか、損な役回りを押しつけられるキャラが必然的に出てくるのであろう。うちの母はそういう役どころの人だった。というか、今もそう。
で、そういう役どころだからこそ経験できた感動なり何なりも結構あったりするようなのだが、私はあんまりそういうのに興味がない。この映画の中でいうところのジョージアのように、「大変ならせんのきゃいいのに…。要領悪いなぁ…」と、割と冷静に母のきりきり舞いを見てきたようなところがある。実際私は、だいぶ小さい頃から母には「娘というより姉っぽい」と言われていた。
しかし、そんなスタンスの私でも、この家族の割り切りぶりはキツイなぁと思う。まず、両親が脚本家というのがキツイ。ああこれはキツイ、考えただけでおぞましい、絶対やだよこんな両親…。そして、父は母が出て行ったことをきっかけに偏屈になってしまったのだが、この母の理屈も凄い。「母になるだけが人生じゃない」と言って、娘3人残して出てってしまうのである。
理屈は非常に分かる、というか考え方としては私と違うところがない。でも、だからこそキツイ。私もこうなるしかないのか?とか思うと、絶望的な気分にすらなってしまう。その矛盾を埋めるためにイヴ的な逃げ遅れキャラが必要になってくるのだろうけど、私に姉妹はいないし…。
「クレイマー、クレイマー」もそうだったし、他にもあったと思うけど、アメリカの母の物語にはそんな矛盾が反映されていることが結構ある。「母は母である」という逃げ場すら危ういこの感じ、日本ではまだ現実味がないけど、主題としてはこれからかなり大きくなってくるんじゃないか。自分を省みた時、すごくそんなことを考えてしまうのだが。
…と書いて、そういえば成瀬が繰り返し扱ってるテーマもそれだよな、と思った。それを現在的な形との比較で考えてみるのも面白いかもしれない。
ジョージアの文句を言っているイヴとマディ。
しかし、直接言うことはできないと話して。
イヴ「家族の力学よ。姉さんはイタリア車(ランボルギーニ)で私たちは日本車(ホンダ)。日本製はいい車だし経済的だし、賢い人なら絶対日本車を買うわ」
マディ「そうね」
イヴ「でも私たちがいくら頑張っても、姉さんが蹴散らしていくの」
マディ「私も日本車?」
イヴ「ただの例えよ」
マディ「姉貴を嫌うのは勝手だけど、私はポンコツじゃないから」
イヴ「分かってるわよ。私だって日本車はイヤ」
マディ「でも、燃費が…」
イヴ「分かってるわよ!例えだってば!取り消すわよ!」
マディ「母親代わりだから許すけど、本当に馬鹿な例え」
イヴ「取り消す!」
★★★★★★☆☆☆☆