『夫たち、妻たち』

1992年アメリカ映画 107分

監督:ウディ・アレン

脚本:ウディ・アレン

出演:ウディ・アレン ミア・ファロー 他


最初から最後まで、とにかくずーーっと喋りっぱなし。決して長い映画ではないけど、その膨大な会話量のせいで、ものすごくカロリー高く感じる。


プロットとしては、二組の中年夫婦があって、片方は離婚すると言ってたけど結局元に戻り、もう一方は離婚なんてと言ってたけど結局離婚するという、言ってみればそれだけの話。むしろ、この作品が徹底的に描こうとしているのは「この人たちがどういう人たちなのか」というところ。つまり、キャラありきでストーリーが進んでいくんじゃなくて、キャラが即ちストーリーなのだ。


そういうやり方には大変惹かれるものがあるのだが、それより何よりまず感じるのは「文化が違う」ということである。この映画に出てくる人々は皆が皆どん詰まっているのだが、それを内に抱え込むキャラは一人としていない。切って開いて全部調べる外科手術みたいなもので、自覚症状の無かった病気まで全部ずる剥けに晒してしまう。それこそ、「放っといてくれたら一生気付かずに済んだのに!」ってとこまで。


「ツボの指圧で治らないかな…」なんて淡ーく思ってる程度の私からすると、もうめちゃくちゃに痛そうなのである。死んだ方がマシとすら思えるほどの大手術をして完治の可能性に賭ける(ここポイント。完治するという保証はどこにもない)くらいなら、進行遅らせる薬でも飲みながら、病気と穏やかに付き合っていけばいいじゃないのと思ってしまう。


自分がそこまでの危機的状況を迎えたことがないからそう思うのかもしれない。でもそれ以上に、「どんな残酷な現実でも、存在してる以上はそれを認める」というこの姿勢、アメリカ人だなぁというかユダヤ人だなぁというか。少なくとも、単なるパーソナリティの問題ではないような気がする。


そしてアメリカのコメディが鮮やかで豊かなのもおそらく、その厳然たる現状認識のためであろうと思う。コメディとは即ち階層描写である。社会に存在する偏見や幻想を精緻に具現化すればするほど、表現としては洗練される。そしてその視線は、本質的に差別的なものである。それゆえ日本でコメディは根付かない。日本に差別がないから、というより、差別に対する感受性のレベルが全然違うから。


この映画のレベルがどれほどのものか、それが一番分かりやすく表れているのが、妻と離婚を決めたジャック(シドニー・ポラック)が新しく付き合い始めた若い女サム(リゼット・アントニー)の描写。彼女はエアロビの講師で、豆腐なんかのヘルシー料理に凝っていて、パーティでは占いをやったりもする。この条件だけを見ても「あぁ、そう」としか思わないけれど、この映画の中で彼女は紛れもない「バカ女」の象徴なのだ。「非インテリ」の記号なのだ。そんなこと、日本で言い切れるか(そして通じるか)という話なのだ。


途方に暮れる。このレントゲン写真のようなあけすけさを前に途方に暮れる。でも私も、何も感じてないわけではないのである。薄々思っている…ただ、口にしちゃいけないような気がしているだけ。「そこにある」と言葉にした時点で責任取らなきゃならなくなるような気がしているだけで、「そこにある」ということ自体は、何となく分かっているのである。どうしたものかと思っているのである。


   ジャックとサリー(ジュディ・デイヴィス)夫婦が別居したことを受け、

ゲイブ(ウディ・アレン)「彼は娼婦を買うような男じゃないよ」

ジュディ(ミア・ファロー)「…サリー、不感症なのかしら」

ゲイブ「インテリ女に不感症は付き物さ」

ジュディ「私も不感症?」

ゲイブ「とんでもない」

ジュディ「でも前、反応が鈍いって言ったじゃない」

ゲイブ「よせよ。もう何年も前の些細なケンカじゃないか。今更蒸し返すな…」

ジュディ「娼婦と寝たい?」

ゲイブ「寝たくないよ。大学時代は寝たけど…今夜の君は変だぞ?あの夫婦に毒されたな」

ジュディ「私たちも、別れる運命なのかしら」

ゲイブ「僕は考えもしないね。君は?」

ジュディ「…じゃあ、どうして子供を欲しがらないの?」

ゲイブ「それは何度も話し合ったろ?君には娘がいるし…」

ジュディ「もう一人欲しいの」

ゲイブ「何故?不毛な時代に子供なんか作りたくないよ」

ジュディ「屁理屈をつけて逃げるのね」


★★★★★★★★☆☆